この地で信仰のともしびを燃やし続けて65年、これからも主イエス・キリストをご紹介して参ります。

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「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」

 これは聖書に記されている神のみ言葉です。神の目差しの中に立つとき、ひとは、はじめて自分の価値に気づきます。どれほど尊ばれ、重んじられ、愛されていたのかを。そしてその神の愛がどれほどであるのかを、聖書はこう記します。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 これは過去のことではありません。神は生きておられます。生きて、今もなお、私たちひとりびとりをかけがえのない存在として愛していて下さいます。愛の働きを続けておられるのです。その神を、ご一緒に知ってゆきたいと心より願います。どうぞ礼拝にお越し下さい。

礼拝・集会案内

 

〈主日礼拝〉毎週 日曜日 10:30〜12:00ころ
 

 礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
 礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
 そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
 
   

〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
      *現在は成人のクラスのみとなっております
 
  成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
 
 

〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
 
 「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れまん。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのめに、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
 黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりまん。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
 
 
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
 
   

教会紹介

  私共は、プロテスタントの信仰に生きるキリスト教会です。
 1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
 今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
 
 もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
 
              

教会堂


 
 
                                
 
 

施設情報 

〈教会名〉静岡中央キリストの教会
〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25
〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます
〈       〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい)
〈牧 師〉中原道也 
〈伝道師〉中原一真

 
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
 
 
 
 
 

はじめての方へ

 
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
   信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
 
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
 
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
 
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
  せん。
 
  ※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
   りません。
 
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
     部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
     だくことも出来ます。ご安心下さい。
   
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
 
 

 
 
〈礼拝説教の要約〉

『私は与えたいのだ』
イザヤ書56:1-8
 マタイ福音書20:1-16

 
 日雇い労働者たち、今日雇ってもらえなければ1日の糧がない人たちです。彼らの元に主人が来ます。「主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(マタイ20:1)そして、「一日につき一デナリオンの約束」(:2)をして、ブドウ園に送りました。1デナリオンは1家族がその日生きるのに必要な賃金です。この時雇われた人たち、〈朝一番組〉は、朝一番に、その日の不安から救い出されたのでした。
 この譬え話で不思議なのは、主人が夜明け、9時、12時、3時、5時と、何度も労働者を探していることです。最初に必要な人数を揃えないのです。5時に広場にいた人は、朝から立っており選ばれなかったということです。だから主人は顔を覚えていたのでしょう。その人たちにも、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(:7)と、賃金の話もせずに、ブドウ園に送りました。彼らは行きました。
 ここで重要なのは、ぶどうが1房も出てこないということです。実は、主人の関心は〈実〉ではなく、〈広場に立っている人〉なのです。そして、この1日誰よりも働き詰めだったのは、この主人です。
 夕方主人は監督に言います。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」(:8)5時に雇われた人たちにも、1デナリオンが支払われました。一人前と認められ、褒められたのです。目を疑ったと思います。安堵と感謝に満ちて帰ったに違いありません。これを見て、〈朝一番組〉が呟き始めます。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(:12)時間を計算すると、〈朝一番組〉は12倍働いたことになります。世の常識から言えば、当然の呟きです。訴える権利のある呟きです。
 しかし、考えてみれば、〈朝一番組〉には感謝のひとかけらもありません。一番最初に、不安から救い出されたはずなのに、今あるのは、「働いた私!稼いだ私!」という誇りと自信、そして、不平と不満だけです。しかも、賃金は約束通り支払われ、何一つ損をしていないのにも関わらず。
 「不平」(:11)、それはイスラエル・神の民が荒野を旅した時、パンと水について呟いたのと同じです。〈天からのマナ〉で神に養われている最中に呟きました。恵みのど真ん中で、湧いてくる不平。それがこの病です。
 いつ、何が、すり替わったのでしょうか。「一日につき一デナリオンの約束」(:2)の「約束」は、「声を合わせて取り決めた」の意味です。つまり、労働者も納得がいってのことです。この〈約束〉が〈自分の働きに応じて受け取る権利〉、つまり〈請求書〉にすり替わっている。これまで聞いた富める青年の話、弟子たちも同じことをしていました。(19:16以下参照)そして今日、〈請求書〉は「不平」に成長しました。これは私どもの姿そのものです。私たちも、「あの人にはこれだけのことをしたのに・・・見合わない。」と不平を漏らすからです。
 私どもの罪のその根っこ、〈自分自身〉がそうさせるのです。自分が自分の真ん中に居座り続ける限り、不平、誇り、妬みが湧いてきます。だから主イエスは、言われたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(19:24)自分自身こそ、背負うべき十字架です。しかも、一度捨てたはずでも亡霊のように何度でも舞い戻ってくる〈自分自身〉はまた〈恵み〉を〈請求書〉に変えるのです。このことを識っていた詩人はこう歌いました。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)打ち砕かれたものだけが、恵みを驚きと感謝をもって受け取るのです。
 主人はこの男に、「友よ」(マタイ20:13)呼びかけます。主イエスはイスカリオテのユダにも同じように呼びかけました。最後まで手を離すまいとする言葉です。「あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。・・・わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」(:13-15)主人は、「支払ってやりたい、与えたい」のです。つまり、神様のしたいこと、それは「探したい、集めたい、与えたい!」です。これが神の、ご自分の自由の用い方なのです。
 この神様の心はイザヤ書にも溢れています。「正義を守り、恵みの業を行え」(イザヤ56:1)義と恵みを両立させるのは非常に難しいのです。しかし、ぶどう園の主人においては、約束は違わず、恵みを与えるという形で両立しています。夕方5時になっても広場へ行かれ集めようとする、恵みを与えようとする、神の御意志は「既に集められた者に、更に加えて集めよう」(56:8)という言葉と重なります。
 この気前の良さは綺麗事ではすみませんでした。なぜなら、この譬えの直後に主イエスはご自分のご受難を再び予告されます。一デナリオンの恵みの背後で、独り子の命が支払われたのです。
 「わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ20:15)という言葉は、「私の目が善いので、あなたの目は悪いのか」という原文です。つまり、私どもの目が、隣の人が与えられる恵みを見て濁るのです。そして、自分が与えられた恵みまで、濁るのです。
 もし、「信仰の年数も足りないし、実績もない。もう遅い」と思っておられるなら、それは誤解です。5時にきた人も、「神のぶどう園では一人前だ」と、主イエスが言っておられます。逆に、長い年月歩んでこられた方のことも、主はお忘れになりません。ただ、隣の人と比べないことです。比べるとき、人を見下すか、自分を卑下するかして、恵みを濁らせます。
 結局のところ、神の支配に生きるとは、招き入れてくださった主人への感謝、驚き、喜びだけが満ちるところです。もし今朝の譬えを聞いて、「また帳面をつけていました・・・」と言って悔い改めるなら、あの御声が聞こえてきます。「友よ。私はあなたにも与えたいのだ。」

『受け継ぐ命』
ヨナ書2:1-10
 マタイ福音書19:16-30

 
 富める青年の問い、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)、ペテロの問い「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)この二つの問いの本質は同じです。自分の頑張りに基づいて、神様に請求書を出す問いです。
 「永遠の命〈=地上の命が尽きてもなお神と共に生きていく専用の命〉を得るために必要なことはしたつもり、〈十戒〉も守ってきた。なお欠けがあるのならそれをしたい。」このように求めてきた青年に主イエスは答えられます。「イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(:21)青年は去りました。その通りだと思いながら、それができなかったからです。私どもも同じです。手放せないものは人により様々です。キャリア、他者からの評価、これらを手放せないのです。
 去る青年を見つめながら弟子たちに主イエスは言われます。「はっきり言っておく。・・・金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(:23,24)つまり不可能だということです。だから、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」(:25)と絶望したのです。その時、「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(:26)と言われました。「神は、あなた方のような者をも救うことがおできになる。」そう言われたのです。
 直後にペテロが口を開きます。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)「私たちは、青年ができなかったことができました!」と言って、自信に溢れて請求したのです。このペテロの行末は、主イエスに対する決定的な裏切りでした(同26:33以下参照)。「何もかも捨てました」という言葉も、「あなたのためなら命を捨てます」という誓いの言葉も、虚しかったのです。
 このペテロに対する主イエスのお答えは驚くべきものです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(:28,29)なぜ人間の言葉の虚しさをご存知でおられながら、これほどの約束をされたのか。その答えこそ、「神は何でもできる」(:26)だったのです。私どもの虚しい言葉に、中身をお与えになるのは神なのです。事実、ペテロも裏切りの後、主のために命を献げるものとなりました。主イエスが、彼の虚しい誓いごと受け止め、中身を生み出してくださったからです。これは本当に深い慰めです。どれほど真剣な信仰の歩みすら、誓った通り、祈り願った通りにできない私どもの言葉の中身を、主イエスがご自分で造り出してくださるのです。
 「新しい世界」と主イエスは言われます。これは、あのニコデモに言われた、「新しく生まれる」ことです。(ヨハネ3:3参照)私どもが、新しく生まれ変わるのです。「新しい世界」は、死の底から引き上げられ、甦られた方が、世の終わりまで治めてくださる世界です。このお方の造り変えの御業はこの朝も続けられているのです。
 富める青年は、「永遠の命を得るには」(:29)と尋ね、主イエスは「受け継ぐ」(:29)とお答えになりました。それは自分で獲得するのではなく、ただ受け継ぐものなのです。それでは「捨てる」(:29)とは何か。それは、「私の名のために」とあるように、主イエスの御名に一切をお委ねすることです。自分で握りしめるのではなく、真実なお方の御手にお委ねするのです。その時それは失われるどころか、「百倍」にされる。事実、家族を後に残していった者達に、主イエスは教会という新しい家族を与えられました。この朝ここに私どもが座っていることが、百倍の始まりです。
 「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(:30)これは自信をもって、胡座をかく者への戒めなのです。この戒めを聞き、あの青年もいつの日か自分の問題に気がつき、同じ恵みの中へと、迎え入れられることもあったかもしれません。
 〈二つの請求書〉に対する主イエスのお答えは、「受け継ぎなさい」でした。自分で精一杯差し出すものが虚しいという事実を識ることが大切です。その時主イエスが、私どもの虚しい言葉を受け止めて、造り変え、御国を受け継ぐものとしてくださるのです。

『手を置いていただくために』
レビ記18:1-5
 マタイ福音書19:13-25

 
 「イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た」(マタイ19:13)とあります。「子供」は当時数に入れられない存在、世においても信仰の歩みにおいても誇れるものなど何一つない存在でした。ただあの方に手を置いて祈って頂くことだけが、この子達の拠り所であり、「人々」はそのことを識っていたのです。
 しかし、弟子たちはこの「人々」を叱りました。「叱る」と訳されている言葉には、「値」という意味が響いていると言われています。弟子たちは、「子供なんか手を置いて頂く値打ちはない!」と叱ったということです。この後ペテロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)と言いました。「自分たちにはこのお方の傍らに立つ資格がある!」そう思っていたということです。
 しかし主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(:14)とお答えになりました。天の国・神による支配は、人が自分の優れたもので獲得するものではなく、神の独り子に手を置いて頂くもの、つまりただ受けるものなのです。
 「そこを立ち去られた」(:15)主イエスに一人の人が近寄り、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(:16)と問いました。この「たくさんの財産を持っていた」(:22)青年は「得る」ために「する」ことを問うたのです。どこまでも、自分の善い行いで獲得する報酬(=請求書)に基づいて、信仰生活を生きているということなのです。
 主イエスはお答えになります。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(:17)ここで二つのことが語られています。一つは、「私の掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ18:5)とあるように、掟は〈命への道〉なのです。つまり主イエスは青年に「〈自分で行う〉ことで〈命を得る〉とあくまでも言うなら、やってみろ。その代わり1点の欠けもない完璧な服従まで自分でいくほかはない!できるというのだな?」と仰っている。二つ目は、「どの掟ですか」(:17)と問われ、主イエスは〈モーセの十戒〉の後半をお示しになったことです。十戒の前半は、「神を真実に神とせよ!」という掟、これが「善い方はおひとりである。」(:17)という言葉の意味するところです。つまり、「あなたが善い業を積み上げることではない。おひとりの善い方を神とするかどうかに懸かっている。」ということなのです。同じ場面を記すマルコによる福音書は「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と記します。主イエスは突き放しておられるのではなく、慈しんでおられるのです。
 「完全」(マタイ19:21)という言葉は、他に〈山上の説教〉の一節「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(5:48)にしか出てきません。そして〈天の父の完全〉とは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)つまり、恵みの完全・愛の完全です。青年の言う完全は自分で満点に近づく完全、主イエスが言われるのは神の恵みの中で生きる完全だったのです。
 その上で、「全財産を、売り払え」と言う主の御言葉を軽んじてもなりません。これも神の言葉なのです。途方に暮れてしまうのは青年だけではないはずです。しかし同時に、使徒パウロは言いました。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリ13:3)全財産を売り払うこと自体が〈救い〉ではないのです。自分の財産、資格、実績、一所懸命にやっている自分自身が、恵みの神を見えなくしていたのです。主イエスは言われるのです。「全て手放して空っぽになってごらん。その時、圧倒的な神の恵みが見えるはずだ。そのあなたに、手を置いて祝福してあげたいのだ。『それから、わたしに従いなさい。』(マタ19:21)
 主イエスはすでに同じ言葉を言われたことがあります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失う・・・。」(同16:24,25)〈自分を捨てる〉、つまり空っぽになるのです。富める青年にとって自分を捨てるとは、全財産を手放すことだったのです。
 「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。」(同19:22)その人にとって命と思えるものが多いほど、手放すことができないのです。この青年は命を失う方へと歩み出した。それを主イエスは深い悲しみの中で見送ったのです。この物語は閉じられないまま、一人一人の前に置かれているのです。
 その後主イエスは言われます。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(:23,24)〈金持ち〉とは、自分の財産、資格、実績、奉仕年数等々で神の前に立とうとする者です。誰も例外ではありません。何もかも捨てたと言う捨てっぷりさえ〈資格〉にしていた弟子たち。だからこそ、「それでは、だれが救われるのだろうか」(:25)と驚いた。絶望の嘆息です。しかし、これこそ、救いの出発点、砕かれた者の声です。
 「誰が救われるのか。」この問いに主イエスは答えずにまっすぐエルサレムへ向かわれます。この問いの答えをご自分の存在で示されました。十字架の上で、自分を捨てて空っぽになったのは、私どもに手を置いて、神の祝福をもたらすためでした。
 かつて主イエスが言われた「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)とは、神の前で何の資格も持たずに、ただ手を置いて頂きに行くことです。自分を捨てて、空っぽになったところにこそ、主イエスの祝福は場所を持ちます。
 毎週の礼拝の最後の〈祝福〉も、あの時子供の上に置かれた主イエスの手が、2千年の時を超えて、私共一人一人の上に置かれているしるしなのです。そのために、ここに集められているのです。主イエスは、空っぽになった自分を差し出すものを、あなどられません。

結び合わせてくださるお方
 創世記2:17-25
 マタイ福音書19:1-12

 

 「七の七十倍赦すのが無理なら、そのまま私についてきなさい。エルサレムまで。」これが先週聴いた主イエスの御声です。「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」(マタイ19:1)ここから、主イエスは十字架に向かって〈最後の旅〉の第一歩を歩み出されます。
 「大勢の群衆が従った」(:2)のは〈過越の祭り〉に参加するためです。つまり巡礼の列の中に主イエスはおられる。そして、「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」(:1)のです。「ヨルダン川の向こう側」はヘロデ・アンティパスの領地です。自分の弟の妻との結婚を洗礼者ヨハネに罪と指摘されて、彼の首を刎ねた人物です。(同第14章参照)その地で、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った」のです。(:3)主イエスが曖昧な答えをすれば厳しさがないと非難し、厳しくお答えになれば、洗礼者ヨハネと同じ運命に追い込む口実となる、周到な問いです。そして問いというのは、問う者の正体を明らかにするものなのです。
 明らかにされた正体とは、常に〈理由探し〉をしている者の姿です。「何か理由があれば」(:3)とある。何か理由を見つけて離縁することを正当化しようとしているのです。当時離縁する力を持っていたのは夫の側だけでした。妻は捨てられるだけだったのです。そして夫の側の理由については当時から様々な真面目な議論がなされていました。自分の正しさを少しも疑わない(=正しい九十九匹)の側の人間が、自分の側に理由を積み上げる行為です。私どもがよく知っていることです。
 主イエスのお答えは、そもそも土俵が違うお方の答えでした。天地創造まで遡り「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。・・・それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(:4~6)一体とは上下関係がなく、〈あなたの得〉と〈私の損〉は別々ではなく、一つの単位として神の前に立つということです。また、「離してはならない」とは引き離す力を持った夫に対する言葉です。そして、「結び合わせてくださった」というのは、「一つの軛に繋ぐ」という意味です。同じ軛に繋がれた2頭の牛は同じ方向にしか歩けません。この二人を導くお方・主イエスは言われました。「私の軛を負い、私に学びなさい。」(11:29)いつでも上手くいっているとは限らない、むしろ祈ることで辛うじて繋がっているような夫婦の罪を、主イエスが負っていてくださる。二人で、主イエスに「我らの罪をも赦したまえ」と並んで祈り歩むのです。
 ファリサイ派は「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」(:7)と反撃し、主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(:8)と訂正されました。つまり、彼らは勝手に〈命令=「命じた」〉に変えたのであって、実は〈許可=「許した」〉だったのです。モーセは、「心の頑な(=硬い)男は妻を去らせるから、それならせめて・・・」と捨て方に制限を設けたのです。神の律法は初めから捨てられる側に立っているのです。
 主イエスは続けます。「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(:9)今度は弟子たちが反応します。「夫婦の間柄(=夫婦である理由)がそんなものなら、妻を迎えない方がまし(=得)です。」(:10)つまり、弟子たちもファリサイ派と同じく〈理由探し〉をし、〈損得〉を考えているのです。
 しかし、主イエスは、同じ「まし」という言葉を天と地ほども違う意味で使われました。「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(18:6)弟子たちのように自分は鐚一文損をしないための「まし」ではなく、「小さな者一人」のためにご自分が損を引き受ける「まし」なのです。
 今朝も必要な用心は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(:6)という主イエスの御言葉を他者に〈請求書〉として突きつけることは許されないということです。主イエスは捨てられるものを守るために言われたからです。〈請求書を突きつける行為〉は突きつけた人がその負債を負うことと同じです。請求書の帳消しは宙に浮いてなくなることではなく、帳消しにするためにその負債を負われるお方がただお一人だけおられるということは先週も確認した通りです。
 「割に合わない」と呟く弟子たちに、主イエスは「だれもがこの言葉を受け入れる(=場所を作る)のではなく、恵まれた者(=与えられている者)だけである。」(:11)と答えられます。それに続けて3種の独身者についても区別をせず同じ地平で述べておられる。つまり「結婚も独身も割に合うから選ぶのではなく、与えられて受け容れる賜物だ」と言われているのです。この賜物は、自分の考え、願い、帳簿で埋まっている心には受け容れる「場所」はありません。〈砕かれた心〉の中にこそその「場所」があります。主イエスは「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(:12)と話を結ばれます。「与えられているものを賜物として受け容れることのできる人は受け取りなさい」ということです。
 他者のために自分の損を引き受ける方向で、「まし」と言われたお方は、実際に十字架上で、その損を引き受けられました。自らの足で、「多くの人の身代金として、自分の命を献げ」に旅立たれました。その主が、中々〈損得〉を問うことをやめない私どもに語りかけています。「私が払う。あなたがたはただで受け取りなさい。そしてついてきなさい、エルサレムまで。」
 
 

〈日々想うこと〉

ひまわりが咲きました。それぞれ異なった土壌に植えたそうです。同じ時に植えた種なのに育ちがこんなに違います。土壌が、とても重要です。
 
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。・・・良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイ福音書第13章より

プランター植え。

 

花壇に植えたものは、天高く、スクスク育ちました。

近所にブドウ畑があります。こんなにたくさんの実がなっていました。これだけの実は何本の幹から実るのかと思い、数えました。幹は、たった一本でした。主イエスのお言葉を思い起こしました。
 
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」- ヨハネ福音書15:5 -

幹はたった一本。

  

実は教会にもぶどうがあります

   

教会のぶどう


 

 私が敬愛する牧師に、高倉徳太郎という人がいます。最近、主日礼拝の説教を聞いていて、高倉牧師の説教を思い起こすことがよくあります。今日はその中の1節をご紹介します。 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ書4:9)という御言葉の説教ですが、次のような趣旨です。「私どもはくまなく赤裸々に神に知られている。これは実に厳粛なこととして畏れるべきです。同時に感謝し尽くせないことです。・・・神に知られていることを真実に知った時ほど、私どもの心が低くさせられることはないのです。私どもは神の前に、何を自分の業として誇ることができますか。私どもにはただ、汚れと無力があるのみです。神を離れて何事もなすことができないとは、神に知られていることを知っている者の偽りのない告白です。・・・今私の心を新たに動かすものは、神の恵み、すなわち、キリストの知遇(取るに足りない自分を知っていてくださること)です。・・・私にもし誇るところありとすれば、それは主イエスが自分を知っていてくださるということだけです。ここにも、自分が「迷い出た一匹の羊」であること、その自分を命懸けで見つけ出してくださる羊飼いのことを深く知っている信仰者の告白の言葉があると、改めて感じ、自分を顧みさせられています。

 
 〈お車でおこしの場合〉

 

アクセス

〈 公共交通機関をご利用の場合〉
 
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