礼拝・集会案内
礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
*現在は成人のクラスのみとなっております。
成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れません。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのために、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりません。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当に素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
教会紹介
1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
教会堂
施設情報
| 〈教会名〉静岡中央キリストの教会 |
|---|
| 〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25 |
| 〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます |
| 〈 〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい) |
| 〈牧 師〉中原道也 |
| 〈伝道師〉中原一真 |
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
はじめての方へ
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
せん。
※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
りません。
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
だくことも出来ます。ご安心下さい。
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
〈礼拝説教の要約〉
「古き良き時代」などと言うように、古いものに価値を見出すことはよくあることです。しかし、信仰に生きる人間の姿に関しては、同じようには言えません。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て・・・造り主の姿に倣う新しい人を身に着け・・・」(:3)と教会の最初の伝道者の一人パウロは言うからです。「古い人は捨てよ!新しい人を身につけよ!」そう言っているのです。
パウロが「捨てよ!」という「古い人」の姿は第5節に記されています。「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」誰一人無関係とは言えない悪徳です。中でも「欲望」という言葉の元々の意味は「切望・切なる願い」です。そのものは悪いものでありませんが、これが「悪い」欲望に変わる瞬間が常にあります。
「あなたにはこうであってほしい」という人に対する「切なる願い」。相手がその願いに答えてくれない時、私どもは怒りを覚えます。自分の願望をなんとしてでも実現させたいという「悪い欲望」です。また、神様に対しても同じ「悪い欲望」を振りかざします。ご自分のご受難を予告なさった主イエスを諌めたペテロ(マタイ16:21以下参照)。ペテロの主イエスへの愛ゆえの言葉です。しかし、「私の考える救い主はこうであっては困る!」という「悪い欲望」に他なりません。だから主イエスはペテロのことを「サタン」とまで言われました。これが「古い人」の姿です。「自分がこの『古い人』を内に秘めていることを、偽らず正直に認めなさい。」ということを言っているのが、「互いにうそをついてはなりません。」(:9)という部分です。
本当にその通りだと認めるとき、途方に暮れるほかはない私どもです。「古い人」を自分の力で捨て去ることができないと思うからです。さらに途方に暮れさせるのは、「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。」(:6)という言葉です。神の激しい怒りが、「古い人」の故に降ると言われているのです。
「古い人」をどうしたら良いのか、切実に問い始める時、一つの疑問にぶつかります。「あなたがたは死んだのであって・・・」(:3)という言葉です。「古いあなた方は死んだ!」と言われているのに、なぜそれをまた「捨てろ!」と言われているのか。古い訳の聖書では、「捨て去れ」は「殺せ」です。死んだものは殺すことができません。
実は、「捨て去れ」という言葉は、「死んだものとみなせ」という意味なのです。ある牧師はこの言葉を説明して、「洗礼を受けた時にキリストと共に死んだのだ。そのことを忘れず思い違いをするな。」と言いました。さらに、「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(:1)とある。「上にあるもの」は、キリストです。「神の右の座」は神の全能の力です。このことを述べながら、「あなたがたは死んだのであって」とパウロは言います。つまり、キリストは神の全能の力で、あなた方が洗礼を受けた時、死んだものとしてくださったのだ、ということです。だからこそ、私どもも、古い自分を死んだものとみなすことができるのです。「神の怒り」(:6)が降るはずの「古い私」は、キリストと共に十字架で死んでもういないということです。キリストが神の怒りを全て引き受けてくださったのです。
洗礼に限ったことではなく、「キリストと共に」(:1、4)にある時、キリストは「古い人」を死なせて、「キリストと共に復活させられた」(:1)者として、新しく生かしてくださる。その新しい命は、「あなた方の命であるキリスト」(:4)と言われているように、キリストそのものです。パウロの「わたしにとって、生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)という言葉とも重なります。あるビジネスマンは、人と会う前に必ず祈ったそうです。人と会うときにこそ「古い自分」が顔を出すからです。ですからその都度、キリストの御業に自らを委ねた。
私どもはこのキリストの御業をよく忘れます。だからこそ、パウロは念押しをします。「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て・・・」(:8、9)今度は「古い人」は「古い衣」です。キリストが既に新しい衣を着て生きることができるようにしてくださったのだから、「古い衣」は脱ぎ捨てて良いのです。「古い衣」は似つかわしくないのです。
新しくさせられたものは、「日々新たにされて、真の知識に達するのです」(:10)「真の知識」とは古い人を死なせ、新しく生かすキリストの御業に関する知識です。「上にあるもの」を求める人には、キリストの御業が日毎によくわかるようになるということです。
パウロ自身が、新しくさせられた人でした。古いパウロは怒りと殺意に満ちた教会の迫害者でした。(使徒言行録8、9章参照)お甦りのキリストがパウロを打ち倒したのです。その時から、古い自分に死んでいく歩みが始まったのです。
「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。」(:11)「区別はありません」とは場所がないという意味です。つまり、パウロは、自分の中に「古い人」の場所がないことに気がつき驚いた。さらに自分にとって「キリストがすべて」(:11)になっていることにも驚いたに違いないのです。自分がエリートだからとか、経験が浅いからなどということは、全く関係ないのです。キリストは今もなお、すべてのものの内に居られてこの御業を続けておられます。
あるキリスト者は次のような趣旨のことを書きました。「毎朝あらゆる願望や希望が、朝、押し寄せてくる。それをまず押し戻すのだ。静かな、しかし大きく、強い、キリストの御声を聞くのだ。」この週も何度でも私どもの「古い人」は顔を出すでしょう。その度に、キリストの御業に自分自身を委ねるのです。キリストの御声を聞くのです。「私が古いあなたを死なせ、新しい私の命に生かす。」キリストは、今もなお、「すべてのもののうちにおられる」(:11)、そして、「神の右の座に着いておられます。」(:1)
マタイ福音書20:1-16
日雇い労働者たち、今日雇ってもらえなければ1日の糧がない人たちです。彼らの元に主人が来ます。「主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(マタイ20:1)そして、「一日につき一デナリオンの約束」(:2)をして、ブドウ園に送りました。1デナリオンは1家族がその日生きるのに必要な賃金です。この時雇われた人たち、〈朝一番組〉は、朝一番に、その日の不安から救い出されたのでした。
この譬え話で不思議なのは、主人が夜明け、9時、12時、3時、5時と、何度も労働者を探していることです。最初に必要な人数を揃えないのです。5時に広場にいた人は、朝から立っており選ばれなかったということです。だから主人は顔を覚えていたのでしょう。その人たちにも、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(:7)と、賃金の話もせずに、ブドウ園に送りました。彼らは行きました。
ここで重要なのは、ぶどうが1房も出てこないということです。実は、主人の関心は〈実〉ではなく、〈広場に立っている人〉なのです。そして、この1日誰よりも働き詰めだったのは、この主人です。
夕方主人は監督に言います。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」(:8)5時に雇われた人たちにも、1デナリオンが支払われました。一人前と認められ、褒められたのです。目を疑ったと思います。安堵と感謝に満ちて帰ったに違いありません。これを見て、〈朝一番組〉が呟き始めます。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(:12)時間を計算すると、〈朝一番組〉は12倍働いたことになります。世の常識から言えば、当然の呟きです。訴える権利のある呟きです。
しかし、考えてみれば、〈朝一番組〉には感謝のひとかけらもありません。一番最初に、不安から救い出されたはずなのに、今あるのは、「働いた私!稼いだ私!」という誇りと自信、そして、不平と不満だけです。しかも、賃金は約束通り支払われ、何一つ損をしていないのにも関わらず。
「不平」(:11)、それはイスラエル・神の民が荒野を旅した時、パンと水について呟いたのと同じです。〈天からのマナ〉で神に養われている最中に呟きました。恵みのど真ん中で、湧いてくる不平。それがこの病です。
いつ、何が、すり替わったのでしょうか。「一日につき一デナリオンの約束」(:2)の「約束」は、「声を合わせて取り決めた」の意味です。つまり、労働者も納得がいってのことです。この〈約束〉が〈自分の働きに応じて受け取る権利〉、つまり〈請求書〉にすり替わっている。これまで聞いた富める青年の話、弟子たちも同じことをしていました。(19:16以下参照)そして今日、〈請求書〉は「不平」に成長しました。これは私どもの姿そのものです。私たちも、「あの人にはこれだけのことをしたのに・・・見合わない。」と不平を漏らすからです。
私どもの罪のその根っこ、〈自分自身〉がそうさせるのです。自分が自分の真ん中に居座り続ける限り、不平、誇り、妬みが湧いてきます。だから主イエスは、言われたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(19:24)自分自身こそ、背負うべき十字架です。しかも、一度捨てたはずでも亡霊のように何度でも舞い戻ってくる〈自分自身〉はまた〈恵み〉を〈請求書〉に変えるのです。このことを識っていた詩人はこう歌いました。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)打ち砕かれたものだけが、恵みを驚きと感謝をもって受け取るのです。
主人はこの男に、「友よ」(マタイ20:13)呼びかけます。主イエスはイスカリオテのユダにも同じように呼びかけました。最後まで手を離すまいとする言葉です。「あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。・・・わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」(:13-15)主人は、「支払ってやりたい、与えたい」のです。つまり、神様のしたいこと、それは「探したい、集めたい、与えたい!」です。これが神の、ご自分の自由の用い方なのです。
この神様の心はイザヤ書にも溢れています。「正義を守り、恵みの業を行え」(イザヤ56:1)義と恵みを両立させるのは非常に難しいのです。しかし、ぶどう園の主人においては、約束は違わず、恵みを与えるという形で両立しています。夕方5時になっても広場へ行かれ集めようとする、恵みを与えようとする、神の御意志は「既に集められた者に、更に加えて集めよう」(56:8)という言葉と重なります。
この気前の良さは綺麗事ではすみませんでした。なぜなら、この譬えの直後に主イエスはご自分のご受難を再び予告されます。一デナリオンの恵みの背後で、独り子の命が支払われたのです。
「わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ20:15)という言葉は、「私の目が善いので、あなたの目は悪いのか」という原文です。つまり、私どもの目が、隣の人が与えられる恵みを見て濁るのです。そして、自分が与えられた恵みまで、濁るのです。
もし、「信仰の年数も足りないし、実績もない。もう遅い」と思っておられるなら、それは誤解です。5時にきた人も、「神のぶどう園では一人前だ」と、主イエスが言っておられます。逆に、長い年月歩んでこられた方のことも、主はお忘れになりません。ただ、隣の人と比べないことです。比べるとき、人を見下すか、自分を卑下するかして、恵みを濁らせます。
結局のところ、神の支配に生きるとは、招き入れてくださった主人への感謝、驚き、喜びだけが満ちるところです。もし今朝の譬えを聞いて、「また帳面をつけていました・・・」と言って悔い改めるなら、あの御声が聞こえてきます。「友よ。私はあなたにも与えたいのだ。」
富める青年の問い、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)、ペテロの問い「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)この二つの問いの本質は同じです。自分の頑張りに基づいて、神様に請求書を出す問いです。
「永遠の命〈=地上の命が尽きてもなお神と共に生きていく専用の命〉を得るために必要なことはしたつもり、〈十戒〉も守ってきた。なお欠けがあるのならそれをしたい。」このように求めてきた青年に主イエスは答えられます。「イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(:21)青年は去りました。その通りだと思いながら、それができなかったからです。私どもも同じです。手放せないものは人により様々です。キャリア、他者からの評価、これらを手放せないのです。
去る青年を見つめながら弟子たちに主イエスは言われます。「はっきり言っておく。・・・金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(:23,24)つまり不可能だということです。だから、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」(:25)と絶望したのです。その時、「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(:26)と言われました。「神は、あなた方のような者をも救うことがおできになる。」そう言われたのです。
直後にペテロが口を開きます。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)「私たちは、青年ができなかったことができました!」と言って、自信に溢れて請求したのです。このペテロの行末は、主イエスに対する決定的な裏切りでした(同26:33以下参照)。「何もかも捨てました」という言葉も、「あなたのためなら命を捨てます」という誓いの言葉も、虚しかったのです。
このペテロに対する主イエスのお答えは驚くべきものです。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(:28,29)なぜ人間の言葉の虚しさをご存知でおられながら、これほどの約束をされたのか。その答えこそ、「神は何でもできる」(:26)だったのです。私どもの虚しい言葉に、中身をお与えになるのは神なのです。事実、ペテロも裏切りの後、主のために命を献げるものとなりました。主イエスが、彼の虚しい誓いごと受け止め、中身を生み出してくださったからです。これは本当に深い慰めです。どれほど真剣な信仰の歩みすら、誓った通り、祈り願った通りにできない私どもの言葉の中身を、主イエスがご自分で造り出してくださるのです。
「新しい世界」と主イエスは言われます。これは、あのニコデモに言われた、「新しく生まれる」ことです。(ヨハネ3:3参照)私どもが、新しく生まれ変わるのです。「新しい世界」は、死の底から引き上げられ、甦られた方が、世の終わりまで治めてくださる世界です。このお方の造り変えの御業はこの朝も続けられているのです。
富める青年は、「永遠の命を得るには」(:29)と尋ね、主イエスは「受け継ぐ」(:29)とお答えになりました。それは自分で獲得するのではなく、ただ受け継ぐものなのです。それでは「捨てる」(:29)とは何か。それは、「私の名のために」とあるように、主イエスの御名に一切をお委ねすることです。自分で握りしめるのではなく、真実なお方の御手にお委ねするのです。その時それは失われるどころか、「百倍」にされる。事実、家族を後に残していった者達に、主イエスは教会という新しい家族を与えられました。この朝ここに私どもが座っていることが、百倍の始まりです。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(:30)これは自信をもって、胡座をかく者への戒めなのです。この戒めを聞き、あの青年もいつの日か自分の問題に気がつき、同じ恵みの中へと、迎え入れられることもあったかもしれません。
〈二つの請求書〉に対する主イエスのお答えは、「受け継ぎなさい」でした。自分で精一杯差し出すものが虚しいという事実を識ることが大切です。その時主イエスが、私どもの虚しい言葉を受け止めて、造り変え、御国を受け継ぐものとしてくださるのです。
「イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た」(マタイ19:13)とあります。「子供」は当時数に入れられない存在、世においても信仰の歩みにおいても誇れるものなど何一つない存在でした。ただあの方に手を置いて祈って頂くことだけが、この子達の拠り所であり、「人々」はそのことを識っていたのです。
しかし、弟子たちはこの「人々」を叱りました。「叱る」と訳されている言葉には、「値」という意味が響いていると言われています。弟子たちは、「子供なんか手を置いて頂く値打ちはない!」と叱ったということです。この後ペテロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)と言いました。「自分たちにはこのお方の傍らに立つ資格がある!」そう思っていたということです。
しかし主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(:14)とお答えになりました。天の国・神による支配は、人が自分の優れたもので獲得するものではなく、神の独り子に手を置いて頂くもの、つまりただ受けるものなのです。
「そこを立ち去られた」(:15)主イエスに一人の人が近寄り、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(:16)と問いました。この「たくさんの財産を持っていた」(:22)青年は「得る」ために「する」ことを問うたのです。どこまでも、自分の善い行いで獲得する報酬(=請求書)に基づいて、信仰生活を生きているということなのです。
主イエスはお答えになります。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(:17)ここで二つのことが語られています。一つは、「私の掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ18:5)とあるように、掟は〈命への道〉なのです。つまり主イエスは青年に「〈自分で行う〉ことで〈命を得る〉とあくまでも言うなら、やってみろ。その代わり1点の欠けもない完璧な服従まで自分でいくほかはない!できるというのだな?」と仰っている。二つ目は、「どの掟ですか」(:17)と問われ、主イエスは〈モーセの十戒〉の後半をお示しになったことです。十戒の前半は、「神を真実に神とせよ!」という掟、これが「善い方はおひとりである。」(:17)という言葉の意味するところです。つまり、「あなたが善い業を積み上げることではない。おひとりの善い方を神とするかどうかに懸かっている。」ということなのです。同じ場面を記すマルコによる福音書は「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と記します。主イエスは突き放しておられるのではなく、慈しんでおられるのです。
「完全」(マタイ19:21)という言葉は、他に〈山上の説教〉の一節「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(5:48)にしか出てきません。そして〈天の父の完全〉とは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)つまり、恵みの完全・愛の完全です。青年の言う完全は自分で満点に近づく完全、主イエスが言われるのは神の恵みの中で生きる完全だったのです。
その上で、「全財産を、売り払え」と言う主の御言葉を軽んじてもなりません。これも神の言葉なのです。途方に暮れてしまうのは青年だけではないはずです。しかし同時に、使徒パウロは言いました。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリ13:3)全財産を売り払うこと自体が〈救い〉ではないのです。自分の財産、資格、実績、一所懸命にやっている自分自身が、恵みの神を見えなくしていたのです。主イエスは言われるのです。「全て手放して空っぽになってごらん。その時、圧倒的な神の恵みが見えるはずだ。そのあなたに、手を置いて祝福してあげたいのだ。『それから、わたしに従いなさい。』(マタ19:21)」
主イエスはすでに同じ言葉を言われたことがあります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失う・・・。」(同16:24,25)〈自分を捨てる〉、つまり空っぽになるのです。富める青年にとって自分を捨てるとは、全財産を手放すことだったのです。
「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。」(同19:22)その人にとって命と思えるものが多いほど、手放すことができないのです。この青年は命を失う方へと歩み出した。それを主イエスは深い悲しみの中で見送ったのです。この物語は閉じられないまま、一人一人の前に置かれているのです。
その後主イエスは言われます。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(:23,24)〈金持ち〉とは、自分の財産、資格、実績、奉仕年数等々で神の前に立とうとする者です。誰も例外ではありません。何もかも捨てたと言う捨てっぷりさえ〈資格〉にしていた弟子たち。だからこそ、「それでは、だれが救われるのだろうか」(:25)と驚いた。絶望の嘆息です。しかし、これこそ、救いの出発点、砕かれた者の声です。
「誰が救われるのか。」この問いに主イエスは答えずにまっすぐエルサレムへ向かわれます。この問いの答えをご自分の存在で示されました。十字架の上で、自分を捨てて空っぽになったのは、私どもに手を置いて、神の祝福をもたらすためでした。
かつて主イエスが言われた「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)とは、神の前で何の資格も持たずに、ただ手を置いて頂きに行くことです。自分を捨てて、空っぽになったところにこそ、主イエスの祝福は場所を持ちます。
毎週の礼拝の最後の〈祝福〉も、あの時子供の上に置かれた主イエスの手が、2千年の時を超えて、私共一人一人の上に置かれているしるしなのです。そのために、ここに集められているのです。主イエスは、空っぽになった自分を差し出すものを、あなどられません。
〈日々想うこと〉
なんのお尻でしょう・・・???
私が敬愛する牧師に、高倉徳太郎という人がいます。最近、主日礼拝の説教を聞いていて、高倉牧師の説教を思い起こすことがよくあります。今日はその中の1節をご紹介します。 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ書4:9)という御言葉の説教ですが、次のような趣旨です。「私どもはくまなく赤裸々に神に知られている。これは実に厳粛なこととして畏れるべきです。同時に感謝し尽くせないことです。・・・神に知られていることを真実に知った時ほど、私どもの心が低くさせられることはないのです。私どもは神の前に、何を自分の業として誇ることができますか。私どもにはただ、汚れと無力があるのみです。神を離れて何事もなすことができないとは、神に知られていることを知っている者の偽りのない告白です。・・・今私の心を新たに動かすものは、神の恵み、すなわち、キリストの知遇(取るに足りない自分を知っていてくださること)です。・・・私にもし誇るところありとすれば、それは主イエスが自分を知っていてくださるということだけです。ここにも、自分が「迷い出た一匹の羊」であること、その自分を命懸けで見つけ出してくださる羊飼いのことを深く知っている信仰者の告白の言葉があると、改めて感じ、自分を顧みさせられています。
〈お車でおこしの場合〉