礼拝・集会案内
礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
*現在は成人のクラスのみとなっております。
成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れません。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのために、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりません。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当に素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
教会紹介
1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
教会堂
施設情報
| 〈教会名〉静岡中央キリストの教会 |
|---|
| 〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25 |
| 〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます |
| 〈 〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい) |
| 〈牧 師〉中原道也 |
| 〈伝道師〉中原一真 |
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
はじめての方へ
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
せん。
※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
りません。
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
だくことも出来ます。ご安心下さい。
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
〈礼拝説教の要約〉
2026年7月12日 主日礼拝
マタイによる福音書18:10-14
「あなたがたはどう思うか。」(マタイ18:12)主イエスは問うておられます。弟子たち、すなわち、主イエスに従っているつもりでいるキリスト者一人一人に。九十九匹の羊のうち一匹が迷い出たら、「九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(同:12)
「損失はたった1%。だから探しになど行かない。」これが私どもの〈物差し〉ではないでしょうか。主イエスはこの〈物差し〉と〈父なる神の価値観〉とを真正面から対立させておられます。たった一匹を本気で数える父なる神の価値観です。
私どもは、迷わずにいる九十九匹の側だと思ってはいないのでしょうか。「迷い出た一匹」と聞いて周りを見回したりはしていないでしょうか。弟子たちがまさにそうでした。ペテロは、主イエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(同16:16)と信仰告白をしました。その矢先、ご自分の十字架を予告された主イエスを諌め、「サタン」(同16:23)と呼ばれてしまいます。そして弟子たちも皆、誰が一番偉いかを論じ合っている有様です。(:1)つまり、自分たち九十九匹の中にいることを露ほども疑っていないのです。その弟子たちに、主イエスは言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(:14)つまり、迷い出ているのは他でもない、あなただ!と言われるのです。
主イエスは別の箇所で言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16:24)この「失う」と「滅びる」は同じ言葉なのです。そして、「得る」という言葉は、今朝の御言葉の「もし、それを見つけたら・・・」(:13)と同じなのです。つまり、主イエスは第16章から今朝の箇所に至るまでずっと、「命を見つけること」、そしてそれを「失う」ことのお話をしておられるのです。なかなか悟らない弟子たちに何とかして悟らせようと、必死にお話をされているということです。
第16章の言葉との繋がりを考えれば次のようになります。「自分の命を救いたいと思う者」は、「自分は迷い出ていない九十九匹の一匹!」と安心する者、「わたし(イエス)のために命を失う」者とは、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」者です。その者のみが、「それ(=命)を得る」つまり、命を見つけることになるのです。従って問題は、羊飼いの前で、「私こそがその一匹です」と、真実に言えるかということです。
この言葉に身をもって生き得たのがパウロです。九十九匹の中でも右に出るものはいないとの自信に生きていたパウロは、お甦りの主イエスに出会ってから変えられていきました。その末にパウロは言いました。「わたしは、その罪人の中で最たるものです。」
しかし、この告白の言葉をも、〈資格〉にしてしまうことも愚かなことです。なぜならそれは、九十九匹の中での順位争いをひっくり返して、たった一匹の席を巡る〈謙遜の競争〉でしかないからです。資格があるからではなくて、主イエスはただ、迷い出ているから探すのです。羊の側に理由はなく、ただ羊飼いが、探してくださるお方だから、なのです。
この羊飼いは言われます。「もし、それを見つけたら・・・」(:13)つまり、見つからない可能性もある、それ故に滅びうるのです。そしてだから、見つけた時の羊飼いの喜びも別格なのです。羊飼いご自身が喜んでくださる。神様が迷い出たものを見つけて大喜びしておられる。それを見て、見つけられた者は、驚き、感謝に溢れる。これが信仰による救いなのです。
ここで思い起こすのは、一連の御言葉の発端の弟子たちの問いです。「だれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(:1)このようなことを問うている時点で、そもそも天国には入れないと主イエスははっきり否定なさった。ではどうしたら入れるのだろうか。これは私どもの問いではないのでしょうか。
この答えが今朝の箇所に隠れているのです。羊飼いに、迷い出た一匹の羊として捜しだしていただくこと。それ以外には天国に入るための入場資格も、方法もないのです。だからこそ、「もし、あなたの手、足、口、この世の物差しが、自分の業でやっていけるとあなたに思わせるのなら、それを切り取って捨てよ!」と、主イエスは激しく言われたのです(:6以下参照)。厳しいお言葉ですけれども、しかし、「他に何の資格もない、迷い出た一匹の羊」にとってはまさに〈朗報・福音〉なのです。
この厳しさは、天の父なる神の熱情そのものです。「命に入れ、天の国に入れ!」と願っていてくださる天の父の御心の中心、つまり、たった一匹を、惜しんでおられるのです。
この熱情は、今朝の旧約聖書・エゼキエル書にも表れています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し・・・」(34:16)この神の熱情が、一人のお方となって歩み出されたのです。そのお方は十字架まで歩まれました。「自分を捨てよ」と言われた方がまず、ご自分を捨てられたのです。「命を失うものはそれを見つける」と言われた方がまず、ご自分の命を失われたのです。私どもが招かれている道は、先に、このお方が既に歩んでおられる道なのです。
ですから、私どもは、恐れずに、〈自分が失われていること〉を識り、認めることができます。項垂れることもなく、誇ることもなく、感謝して認めることができるのです。神の御子が、ご自分の命に代えて、捜しだしてくださるのですから。探し出された者は、この感謝に押し出されて、御子の後を追って、一所懸命に歩んでいくのです。
2026年7月5日 主日礼拝
マタイによる福音書18:1-11
「そのとき」(マタイ18:1)、つまり主イエスの十字架の予告(同17:22参照)のすぐ後、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(同18:1)と、弟子達は主イエスに問いました。「天の国」つまり、神の御前で誰が一番評価されるのかを問うたのです。相変わらず、〈この世の物差し〉を握りしめたまま、主イエスの側にいたということです。これは私どもの問題です。
その弟子たちの土俵を、主イエスは丸ごとひっくり返されました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(同18:3)そのままでは天の国に入ることすらできないのだと言われたのです。途方に暮れてしまうお言葉です。
「心を入れ替えて」とは、「丸ごと新しくやり直す」ことを意味します。どうやり直すというのか。「子供のようにならなければ・・・」(同18:3)とあります。つまり、「子供に生まれ変わらなければ天の国に入ることすらできない!」と言われているのです。そして、子供のようになるとは、小さくなることです。洗礼者ヨハネを思い起こすことができます。主イエスは彼についてこう仰いました。「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(同11:11)つまり、洗礼者ヨハネは極小であり、そこに彼の偉大さがあるということです。そして彼の小ささは、彼自身の言葉に表れています。彼は主イエスを見ながら、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:30)と言いました。実は、これこそが、主イエスを信じる信仰なのです。生涯を通じて、私という存在の中で、主イエスがどんどん大きくなり、その結果として私自身が小さく小さくなっていくのです。これこそが、命ある生きた信仰です。
そして、私どもの中で主イエスが大きくなることの邪魔をするものこそ、〈世の物差し〉なのです。その物差しを丸ごと切り取って捨てなさいと、主イエスは激しく言っておられる。その心が表れているのが、第8節〜9節にあるあまりにも激しいお言葉なのです。私どもが持っている〈世の物差し〉は、それほど激しく切り捨てるべきものだということです。
私どもがそうやって、常に〈世の物差し〉に従って生きている時、私どもは神様からそっぽを向いて生きているのです。そっぽを向いて、立派な信仰者になったつもりで生きているのです。ですから主イエスが言われた次の言葉は悲しみが込められた言葉です。「言っておくが、彼ら(=小さな者)の天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(同18:10)天使と父なる神は見つめあっている。そして天使がつくのは、自分を顧みることをしない信仰者にではなく、自分が神様から見てどれほど失われたものであるのか、どれほど根強く〈世の物差し〉に頼って生きてしまっているか、そのことを深く反省し小さくなれるものに、です。私どもがそうやってそっぽを向いている時にも、天の父なる神は心を痛めながら、目を離さず見つめてくださっているのです。
そのことに気が付く時、それが主イエスのおかげであることに気がつくのです。「人の子は、失われたものを救うために来た。」(同18:11)これは福音書記者の、深い感謝と喜びの告白です。神と等しいお方が、一切を投げ打って、この小さな失われたものである私を探しに来てくださった。だから、神はこの私を慈しみの眼差しで見ていてくださるのだということです。
そして、主イエスが捜しに来てくださったというこの恵みが、私どもの中で大きく大きくなるとき、私どもは喜んで小さくなっていくことができるのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」という洗礼者ヨハネの言葉が、私ども自身にとっても恵みとして響き始め、自らの言葉として告白できるようになるのです。
そして、そのように現にキリストが私どもの中で大きくなり、〈私〉が小さくなる時、隣にいる兄弟姉妹が大きく見え始めるのです。「この人も、私と同じように、主が捜しにきて下さった一人だ」ということを識る。そうやって小さくされたもの達は、ただ安んじて、神様を「アバ(=幼子が父を呼ぶ際に用いる呼び方)、父よ」とお呼びして生きていくのです。
この小さなもの達を、主イエスが捜し出し、招き入れてくださるのが、主の食卓です。小さなパンと小さな盃を囲む、小さな食卓。これは、主イエスがご自分の十字架の恵みを味わわせてくださる、祝いの食卓です。
〈お車でおこしの場合〉