礼拝・集会案内
礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
*現在は成人のクラスのみとなっております。
成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れません。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのために、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりません。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当に素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
教会紹介
1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
教会堂
施設情報
| 〈教会名〉静岡中央キリストの教会 |
|---|
| 〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25 |
| 〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます |
| 〈 〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい) |
| 〈牧 師〉中原道也 |
| 〈伝道師〉中原一真 |
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
はじめての方へ
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
せん。
※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
りません。
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
だくことも出来ます。ご安心下さい。
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
〈礼拝説教の要約〉
「これは、主がなさったこと」(マタ21:42)。この一句にたどり着くために、ある主人の僕達と、息子が殺されるという、恐ろしい話を通っていかなければなりません。
この朝も、主イエスは神殿の境内で、祭司長達に語り続けておられます。「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」(:33)ここにこの譬えを読み解く鍵があります。それは、農夫達が〈貸していただいている〉ということです。
「収穫の時が近づいたとき」(:34)、主人は僕達を送ります。「収穫を受け取るために」(同)は、原文では「彼の実を受け取るために」です。つまり、実は全て主人のものです。しかし、「農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。」(:35-36)なぜこのような常識と理解を超えたことが起こるのか。それは、畑を自分のものと思っているからです。自分の畑だと思っているもの達には、主人の使いが強盗に見えるのです。
主人は最後に自分の息子を送ります。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(:37)そんなはずはないと思います。すでに多くの僕を殺されているのですから。しかし主人は兵隊を送らず、息子を送ったのです。「敬ってくれるだろう」は原文では、「恥じ入るだろう」です。主人の願いは、農夫達が主人の息子を見て、「我々は何ということをしたのか…」と顔を伏せて思い直すことです。息子の命を危険に晒してまで、農夫たちが返って来ることを待たれたのです。
「農夫たちは、その息子を見て話し合った。」(:38)自分たちだけで決めたのです。「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」(同)借り物だとわかっているから、「我々のものにしよう」と言っているのです。返す気がないのです。
私どもはどうでしょうか。ぶどう園は「神の国」(:43)です。神の国を自分たちのものにする。自分の考え・力で神の国に入る。〈自分なりの信仰(=自力の信仰)〉です。今日食卓に並んでいる食べ物も、この体も、この1日も、何一つ自分で作ったものはありません。借り物です。「殺そう」とまでは言わないかもしれません。しかし、「私の人生、お金、時間、全ては私のもの。私が自分の中で全て決める。」そう言って「我々のものに」しているのです。
農夫たちは「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」(:39)同じように主は、都の門の外へ引き出され、十字架に付けられました。
主は問われます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(:40)彼らは正解を答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(:41)彼らは聞かれていないことまで答えています。「季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たち。」実をちゃんと納めることが主人の望みだとわかっている。私どもも、献金の時や食前に、実は主のものであると、祈ります。知りながら自分の畑のように暮らしているのです。主は問うておられるのです。「あなたは、この話をどこに立って聞いているのか」と。
主は詩篇を引かれます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(118:22-23)農夫たちは息子を殺しました。その息子を主人は隅の親石にされたのです。死んだままでは新しい家の土台にはなれません。既にここに、甦りの光が指している。息子の死から、主の業が始まったのです。
「 だから…神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(:43)「取り上げられる」とは「あなたたちの思い通りにはならなくなる」ということです。「自分なりに…」は通用しなくなる。しかし、ここでも門は閉じられていない。「祭司も大勢この信仰に入った。」(使徒6:7)と記されている通りです。
「与えられる。」(:43)神の国は、自力で奪い取るのではなく、〈与えられるもの〉です。また「それにふさわしい実」(同)は、原文では「その実」です。つまり、「神の国の実」のことです。大切な借り物だと識って主に委ねるものに、主が結ばせてくださる実がある。さらに、「実を結ぶ民族」(同)は、「神のものとなった民」(1ペテロ2:9)です。〈自分〉が〈神のもの〉となったのです。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(1コリ6:19-20)代価とは、殺された息子の命です。
祭司長たちは、「群衆を恐れた。」(マタ21:46)だから主を捕らえることができませんでした。神を恐れない者は、人を恐れるのです。
この朝、この譬えを語っておられるのは、息子ご自身です。ご自身を殺すことになる人々に対してです。主人が「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(:37)と言って息子を送ったのと同じ思いで、語っておられるのです。「思い直して返ってこい」と。
同じ息子は、私どもにも同じ話を語っておられます。「自分の心に従って何が悪い」と言ってきた私どもに。私どもが捨てた石を、神は隅の親石とされ、その上に、私どもを建ててくださっています。だからこの朝、私どもはここに集っているのです。
私どもは申し上げる他はありません。「あなたを主と呼びながら、あなた抜きで、自分の心で決めてきました…。」そしてそれが、砕かれる心です。主が侮られない、いけにえです。その私どもに主は答えてくださっています。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(:42)アーメン!
主イエスは人に問われます。「あなたたちはどう思うか。」(マタ21:28)
直前の箇所(:23-27)で、主に対して「何の権威で」と問うた祭司長達。そして逆に主から、ヨハネの洗礼の権威の所在を問い返された彼らは「わからない。」としらばっくれました。主は「それなら私も、言うまい」と言われた上で、続けられるのです。ある父親が、2人の息子にぶどう園で働いてくれと言う。兄は嫌だと言ったが、後で出かけた。弟は承知しましたと言ったが、出かけなかった。どちらが父の望みどおりにしたか。問われた者は答えます。「兄の方です。」(:31)これは正解です。しかし主は「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(31)と言われました。つまり、正解を知っていることと、神の国に入ることとは、別のことなのです。祭司長たちは自分達のことを言われているとは思いませんでした。主は、「あなたは、どこに立って私の言葉を聞いているのか」と問われるのです。
主は祭司長たちの立場をはっきり述べます。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(:32)譬え話では終わらず、現実のことが述べられている。譬え話では、「出かけた・出かけなかった」、現実では「信じた・信じなかった」です。つまり、ぶどう園に出かけることが、信じることです。信じるとは、すべてに先立つ『父の望み』に、子として「はい、お従いします」と答えることです。権威に服するということです。
そして「父の望み」は、父の元にただ返ることです。だから、譬え話には働きに関する話が出てきません。収穫や賃金の話も。父のいるところに子が来ることが、父の望みなのです。「父の望み通りにすること」を、「後で考え直して」(:29,32)が挟んでいるのが今朝の箇所の特徴です。考え直した兄、考え直さず信じなかった祭司長達。この挟み込みのど真ん中に私どもは立たされています。
「考え直す」は、「後から気に掛かる・後悔する」の意味です。「嫌だ」と言ったことを後悔したのです。だから出かけたのです。しかし興味深いのは、原文では受け身で書かれているのです。何かが彼に考え直させた。それは「子よ」という父の言葉です。主がこの言葉で呼びかけたのはもう一人、中風の人のみです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)子よ、と呼ばれた者は、赦しを聞いている者です。息子は朝聞いた言葉が、夕に気になった。
このことは祭司長達にも起こるはずのことでした。日頃見下げていた徴税人や娼婦がヨハネを信じた。神の業が起こった。これが彼ら「後で考え直(す)」チャンスでした。しかし、「我々には必要ない」と思った。彼らの誇りが、神の業を見えなくしました。しかし主は、ヨハネの水まで降りられました。「義の道」とは水に降りる道、水没して、神の御手に一切を委ねる道です。祭司長たちは誇らしげに、水に降りた者達を岸から眺めていたのです。そして、見下げるのは他者だけとは限りません。私どもは自分を見下げはしないでしょうか。「神の業はこんな私には起こるはずがない」と。洗礼の時、「はい」と答えたまま、安心して座り切っている私どもは、譬え話の第2子です。
人間には2種類しかいません。「はい」と言って、行かない者、「嫌だ」と言って、後で出かける者です。後者にのみ、「父の望み通りにした」と判定を下されます。これが唯一の道です。考え直した子供は「今日」行ったかはわかりません。「後で」行きました。1年後かもしれません。しかし、父はその子を、受け入れられるのです。主は言われます。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(:31)先に、です。まだ門は開いている。誰でも、返ることはできるのです。
そしてそれは、「はい」と言ってそのままぶどう園に行かれた方のおかげです。譬え話を語られたご本人です。主は早晩殺されることになるぶどう園の手前で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(26:39)「父よ、この杯は嫌だ!」と祈られたのです。兄息子の心をご存知でいてくださる。しかし、すぐに祈りを続けられます。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(:39)これは私どもが毎週祈る〈主の祈り〉です。
譬え話の中の息子達は「父よ」とは言いません。ゲツセマネで祈られた主が、「父よ」と言って権威の前に額づいてくださった。そしてぶどう園で殺されたのです。このお方のおかげで、「嫌だ」と言うものが考え直したなら、「父の願い通りにした!」という判定が下されるのです。
「はい」と言ってその場に居座った自分、「嫌だ」と言ったままの自分を認めるとき、「子よ、今日」という父の言葉が返ってきます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)
主は「宮清め」(マタイ21:12-17)の後、ベタニアに泊まり、翌朝都に帰る途中、葉ばかりで実のないいちじくに「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(:19)と宣告なさいました。この順序が大切です。私どももこの朝、主が清めてくださった庭に集い、主が語られる御言葉を聞くのです。
この庭への近づき方は3通りあります。そのうち2通りは、既に読んだ「主に憐れみを乞う者」、「それを見て喜び叫ぶ子供」。この朝は3組目の「問いただす権威者」に注目します。
権威者は「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(:23)と主に問います。「神殿やそこにおける商人の活動を許可し管理しているのは自分達、従って、尋ねる権利、その答えの正否を判断するのは我々だ!」これが彼らの心です。
彼らが問うた時、主は「教えておられる」(:23)真っ最中です。主は「権威あるものとしてお教えになった」(7:29)と同じ福音書は記します。彼らはこの「権威」を問題にしているのです。主は答えます。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」(:24-25)途端に、〈問うもの・裁く者〉だった権威者が、〈問われる側・裁かれる側〉に変えられました。そして、この主の問いは既に答えを含んでいます。洗礼者ヨハネはかつて言いました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(3:11)ということは、ヨハネの洗礼が天からのものなら、ヨハネが指したお方も天からのものです。主は「あなた方は薄々わかっている。それならどうしてはっきりと判るようにならないのか!」と、問いの形で告げたのです。
ここに〈信仰の始まり〉があります。問うているものが、神に問われていることに気が付く。キリスト者は、一生涯主に問われ続ける求道者です。
私どもは、「御言葉は、資格がある者のものだ。私には縁がない」と思い続けてはいないでしょうか。謙遜のつもりで、実は、祭司長達の心と表裏一体です。「資格がないので深くは関わりません」と言っているのです。主の問いから身を引くのです。それでは御言葉は遠いままです。しかし実は、御言葉は資格のない者に示されるのです。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(11:25)と主が祈られた通りです。
併せ読んだサムエル記上には、民の同じ心が記されています。民はあくまでも王を求めた。神は言われました。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(サム上8:7)「王が代わりに神の前に立てば良い。牧師がすればいい、口達者な人が祈りはすればいい。」神はこの民の願いを退けず、王を与えられました。恐ろしいことです。しかし神は遂に別の王を送られました。「ダビデの子」、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタ20:28)王です。その王が、清めた庭に立ち、信仰者たちに問うておられるのです。
ヨハネの洗礼は、「悔い改めて神に返れ!」と呼びかけるものでした。すべての者への呼びかけです。何の区別もありません。祭司長たちも水辺には来ました。しかしヨハネは彼らに、「蝮の子らよ…悔い改めにふさわしい実を結べ。」(:7-8)と言い、彼らは「彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」(ルカ7:30)。ところがそこに降りたのが主イエスです。主が水から上られた後、「天がイエスに向かって開いた。・・・『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(3:16-17)天からの権威とは、まず、ヨハネの洗礼に先に降りられた方の権威です。人々と同じように主ご自身も、ヨハネにご自分を委ね、彼の手で沈められました。委ねる、沈められる。つまり、天からの権威は、天から授けられた権威です。
祭司長達は「論じ合った」(:25)のですが、「自分たちの間で、自分たちの中で、論じ合った」という意味です。心の中で計算したのです。「天からと答えても、人からと答えても損をする。」彼らの関心ごとは人に何と言われるか、だけです。だから「分からない」(:27)と言いました。ちゃんと答えれば、自分が変わらなければならないからです。隠し持っているものを手放すことができないのです。
主のお答えは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(:27)でした。拒絶ではありません。黙って、じっと見ておられるのです。裸になって降りてくるのを待っておられるのです。権威を巡る問いはもう一度出てきます。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」(26:63)これに対する答えで、主の十字架は決定しました。問いの答えは十字架でした。そして主はお甦りの後言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(28:18)十字架を通り抜けた向こうで、父から受けた権威です。
問うておられる方は、私どもの罪の重さを全部ご自分で引き受けて、十字架に上られた方です。このお方の前で隠し持っているもの全てを手放す。面目は失います。しかし命を受けます。これが自由です。問われる喜びを知ります。これが洗礼の意味です。水に沈められて、自分に死ぬのです。主の命に生かされて、上がってくる。一度沈められたものは、日毎に何度でも沈められます。新しい自分に日毎に生かされます。これがキリスト者の本当の毎日です。
私どもはあの3組のうち、どれかとして清められた庭に立っています。「私は本当に知りません。どうか教えてください。」そう幼子として問うのであれば、必ず答えられます。私どもはこう申し上げる他はありません。「主よ、問われることをずっと避けてきました…」と。そう認めるとき、主は言われます。「では、わたしも一つ尋ねる。」(21:24)これは恵みです。主は随分長いこと待っておられます。私どもが裸になって降りてくるのを。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩51:19)
マタイ福音書21:18-22
「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。」(マタイ21:18)主イエスはご自分の家に帰る途中、空腹を覚えられた。この空腹は、〈都と結びついた空腹〉です。神の都に実り、すなわちまことの信仰がないことに飢えておられたのです。
その時、主イエスは道端にいちじくを見つけ、近寄られます。しかし、過越祭の季節(=春)であるため実はなっていなくて当然です。いちじくの実がなるのは初夏です。しかし主は、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(:19)と言われます。これは、信仰においては、主イエスが近づいてこられる時こそが、実を求められる時なのです。そして実のないいちじくは、〈神に背いた民〉を指します(エレ8:13)。いちじくと、あの神殿とそこで献げられている生きた実のない礼拝は同じものです。いちじくに対して、「もう実らせるな」と主イエスが言われたのは、〈宣告〉です。葉が覆い隠していた死を、宣告することで明らかにされたのです。
聖書の記述に基づいて想像するならば、この「葉」とは、自分の知恵と力です。創世記第3章でアダムとエバは、神に背いた直後に、「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(3:7)「葉で隠せばいいのだ!神にも見えまい!」と言って恥を隠したのです。この〈自分の知恵と力を頼りにする信仰〉が〈自力の信仰〉となります。だから「神様、憐れんでください、ホサナ」とは叫びません。無力な子供とは違う、立派な大人だと思っているからです。このような信仰が「葉」です。
私どもの教会はどうでしょうか。「私は大丈夫。」と安心して胡座をかいているなら、それもまた「葉」です。この教会の将来は、大人ではなく、小さな者たちにかかっています。
主が飢えておられるのは、神の愛に応える心がないことへの飢えです。併せ読んだ申命記は神の愛を語ります。「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」(10:18)神の民の中にありながら勘定に入らなかった孤児や寡婦など、神にすがる以外、術を知らなかった者を、神は大切(*切々たる、胸に迫る思いであるものを大事にする意)にされたのです。この神に大切にされ、それに応えるのが実です。
神の愛がないところには滅びしかありません。その滅びの中に立ち、それを取り去るために主は帰ってこられるのです。先ほどの創世記では、アダムとイブが自力で綴った葉に変えて、神は衣を作って着せてくださった(3:21)。皮の衣でした。つまりこの衣のために1つの命が失われているのです。主はこの衣を私どもに着せるために都に帰ってこられたのです。
「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」(マタイ21:20)と弟子たちは驚きました。主は答えます。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」(:21)つまり、「木を枯らしたのは、私の力ではなく、生きて働く神の力だ。あなた方も同じ信じ方をするなら、同じことが起こる。」自力で覆った葉を、神が枯らしてくださる。神の前で裸にされ、乳飲み子にされるのです。「山」とは、神殿の丘・シオンだろうと思います。死んだ信仰しかない丘です。神の民の罪であるこの山を動かすために都に帰って行かれる。主の十字架と、復活と、そこから注がれる聖霊によりこの山は動くのです。
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(:22)とは、こんなことまでも信じて祈るなら、という意味です。山のような自分の罪を自力で動かすことができない者が、それを取り除いて頂くことまでも求めて良い。それが得られると、主が約束してくださっている。
私どもはよく、私の願いを〈祈り〉という言葉に乗せて、神に差し出す。そして「聞かれない…!」と呟きます。これは私どもの正直な声です。しかし、主の約束の言葉は、自分の中の山を忘れずに聞いて初めて真実の言葉になるのです。
この約束は主において成就しています。いちじくは立ち所に枯れました。主は〈立派な大人の信仰〉が枯れることを求められた。それは既に聞かれたのです。だから、私どもは希望を持てるのです。
自分勝手な願望が祈りなのではありません。主ご自身が教えてくださった祈りは、御名、御心、御国を祈り、その上で日々の糧、赦し、守り、地上のことを祈るものでした。その通り、主はあのゲッセマネで祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(同26:39) これが十字架へ向かう決意を生んだ祈りです。山を動かした祈りです。このように信じて祈るとは、神に、ご自身の御心を成し遂げて頂くことであり、その神の御心と私の心が一つとなることです。そのために、古い私から新しい私へと造り変えられることです。決まった時間の祈りに留まりません。生活が、全人生が祈りです。
死んでいた神殿の後に新しく造られるのが、信仰だけで立つ新しい人間です。それが神がお住みになる宮です。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリ6:19)一人一人の小さな者が神殿です。「葉のほか何もない…」とわかった者を、主は求めておられます。その者を新しくするために主は命を注ぎ、死に勝たれ、復活されました。教会の将来は小さな者たちにこそあります。
ゼカリヤは言いました。「武力によらず、権力によらずただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる。」(ゼカ4:7-6)山は「神の霊」によってのみ動きます。その時、小さな者が生きた神殿になります。
この後、私どもは主の食卓につきます。飢えておられる主が、ご自分を食物として差し出されるのです。この食卓で、私どもは皮の衣を着せられ、生きた神殿とされるのです。
〈日々想うこと〉
なんのお尻でしょう・・・???
私が敬愛する牧師に、高倉徳太郎という人がいます。最近、主日礼拝の説教を聞いていて、高倉牧師の説教を思い起こすことがよくあります。今日はその中の1節をご紹介します。 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ書4:9)という御言葉の説教ですが、次のような趣旨です。「私どもはくまなく赤裸々に神に知られている。これは実に厳粛なこととして畏れるべきです。同時に感謝し尽くせないことです。・・・神に知られていることを真実に知った時ほど、私どもの心が低くさせられることはないのです。私どもは神の前に、何を自分の業として誇ることができますか。私どもにはただ、汚れと無力があるのみです。神を離れて何事もなすことができないとは、神に知られていることを知っている者の偽りのない告白です。・・・今私の心を新たに動かすものは、神の恵み、すなわち、キリストの知遇(取るに足りない自分を知っていてくださること)です。・・・私にもし誇るところありとすれば、それは主イエスが自分を知っていてくださるということだけです。ここにも、自分が「迷い出た一匹の羊」であること、その自分を命懸けで見つけ出してくださる羊飼いのことを深く知っている信仰者の告白の言葉があると、改めて感じ、自分を顧みさせられています。
〈お車でおこしの場合〉