この地で信仰のともしびを燃やし続けて65年、これからも主イエス・キリストをご紹介して参ります。

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「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」

 これは聖書に記されている神のみ言葉です。神の目差しの中に立つとき、ひとは、はじめて自分の価値に気づきます。どれほど尊ばれ、重んじられ、愛されていたのかを。そしてその神の愛がどれほどであるのかを、聖書はこう記します。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 これは過去のことではありません。神は生きておられます。生きて、今もなお、私たちひとりびとりをかけがえのない存在として愛していて下さいます。愛の働きを続けておられるのです。その神を、ご一緒に知ってゆきたいと心より願います。どうぞ礼拝にお越し下さい。

礼拝・集会案内

 

〈主日礼拝〉毎週 日曜日 10:30〜12:00ころ
 

 礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
 礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
 そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
 
   

〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
      *現在は成人のクラスのみとなっております
 
  成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
 
 

〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
 
 「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れまん。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのめに、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
 黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりまん。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
 
 
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
 
   

教会紹介

  私共は、プロテスタントの信仰に生きるキリスト教会です。
 1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
 今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
 
 もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
 
              

教会堂


 
 
                                
 
 

施設情報 

〈教会名〉静岡中央キリストの教会
〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25
〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます
〈       〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい)
〈牧 師〉中原道也 

 
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
 
 
 
 
 

はじめての方へ

 
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
   信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
 
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
 
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
 
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
  せん。
 
  ※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
   りません。
 
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
     部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
     だくことも出来ます。ご安心下さい。
   
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
 
 

〈礼拝説教の要約〉

2026年6月21日 主日礼拝

『厚い信仰』
イザヤ書49:14-19
 マタイによる福音書17:14-21

 
 「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」(マタイ17:15、16)弟子達は、主イエスから、「汚れた霊に対する権能」を授けられた(同第10章1節以下参照)のに、この息子を癒すことができなかった。大失敗したのです。弟子達はこの失敗の理由を、群衆から隠れるようにして「ひそかに」(同:19)主イエスに尋ねました。なぜひそかに尋ねたのでしょうか。プライドが傷つくからです。メンツが丸潰れだからです。私どもにもよくわかる気持ちです。
 弟子達の失敗の理由を主イエスははっきりと指摘なさいました。「信仰が薄いからだ。」(同:20)そして実は、信仰が「薄い」のではなく、信仰が「ない」のです。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(同:17)と言われている通りです。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」(同:20)とも言われているように、小さいものの代表である、からし種ほどの信仰もないと言われているのです。
 弟子達は自分たちの失敗の尻拭いをするようにして、目の前でてんかんの息子を癒してくださった主イエスよりも、自分たちに関心があるのです。自分たちのことばかり考えているのです。自分たちの失敗の原因を問うたのです。自分たちのプライドを守りながらです。これこそ、主イエスが嘆かれた「よこしまな時代」(同:17)の特徴です。「そんなものは信仰ではない!」と言われているのです。元来は「曲がっている」という意味です。つまり、神の方を全く向かず、自分自身の方を向いている。神やキリストもいなくても、自分が真面目に頑張り、成功すればそれで良いのです。そういう時代の代表が弟子達であり、私どもだということです。
 そういう私どもを嘆いて、主イエスは言われます。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(同:17)弟子達の不信仰の罪は、主イエスが「いつまで・・・」と嘆くほどに重いのです。しかし主イエスは最後まで、我慢し(=下に身を入れて崩れないように両手で支え)てくださっている。この我慢の末に立ったのが十字架なのです。
 私どもは、そのままでいいはずがありません。ではどうすれば良いのか。いつでも自分自身の成功・失敗を問うちっぽけな世界に生きるのではなくて、生々しい日常生活において、神の御業を尋ね求める信仰に生きるのです。神の御業に見合った生活を造り上げるのです。それこそ、主イエスが、「小さくてもそれだけあれば充分!」と言って、喜んでくださる信仰です。自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う信仰です。(同16章参照)この信仰は小さくても構わないのです。
 〈この意味での小さな信仰〉はどうしたら手に入るのか・・・。自分を捨てて、自分の十字架を背負う、それは自分に期待しない、自分に望みを置かなくなるということです。その時、その人は、ただ「主よ、息子を憐れんでください」(同:15)と言って主イエスの前にひざまづいた「ある人」(同:14)と同じところに立っているのです。その人は、いつでもどこでも、主イエスの憐れみを祈り願う他はないことを識っているのです。これが、〈からし種一粒ほどの信仰〉です。そこにしか、主イエスが十字架で死に、甦られたように、私どもも古い自分に死に、信仰が甦る道はないのです。そしてその道は、すでに拓かれています。

2026年6月14日 主日礼拝
『主イエスの変貌は何のため』
イザヤ書30:8-22
マタイによる福音書17:1-13


「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:2)
とあります。通常「山上の変貌」と呼ばれる出来事です。これは当時の人々にだけ意味を持つ出来事ではありません。今を生きる私どもにとって、慰めとなり、幸いな出来事となるのです。しかし、なぜそう言えるのでしょうか。
 主イエスは、光り輝く真っ白なご自分をお示しになりながら、「あなたがたもこの命の光りに与ることができる!」と言われるのです。自分自身がどれほど醜い存在であるかを、主イエスなしでは滅びゆく自分自身でしかないことを深いところで本当に識っている者にとっては、お甦りの主と同じ姿に甦らせられて生かされるということが唯一の望みになるのです。
 弟子たちは、「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」(同:6)とあります。神の声を聞いて、まずひれ伏してしまった。そして恐れが湧いてきた。神に打ち倒される経験をしたのです。そこに主イエスが「近づき」(:7)「起きなさい。恐れることはない」(:7)と言って、手を触れてくださった。滅びゆく自分自身であることを知り、神の声に打ち倒されて、恐れていた弟子たちを、主イエスが、立たせてくださるのです。ご自分を望みとして、立つことができるようにしてくださるのです。
 このことと関連して非常に重要なことがあります。それは「言っておくが、エリヤは既に来たのだ」(:12)と主イエスが言われたことです。そしてエリヤは、ひたすら悔い改めを説いた洗礼者ヨハネのことだったのです。そして、洗礼者ヨハネが既に来たということは、〈神の最後の救いに至るまでの時間〉が既に始まっているということです。私どもはその時間を、毎日生きているということです。
 〈最後の救いに至るまでの時間〉をどのように生きているでしょうか。自分の知恵や力、経験、人脈、そのようなものを自分の望みとして生きてはいないのでしょうか。それらを頼みとして自分の思い通りに生きてはいないのでしょうか。そのように生きている時に、その人は神のみを望みとして生きてはいないのです。それはむしろ神の言葉を圧し殺すこと、神ご自身を、主イエスを殺すことなのです。そして実際そのようにして、ヨハネはヘロデに殺され、主イエスもまた、弟子たちをはじめとし、人々によって十字架に追いやられ、殺されました。
 しかし主イエスはお甦りになりました。お甦りの主イエスを、私どもが日々、なお圧し殺し、罪に生きているとするならば、これほど恐ろしいことはないのです。そしてそれは、滅びゆく私どもを、ご自身と同じ姿に変えてくださろうとしている主イエスの愛を殺すことなのです。そしてそこには望みはもはやないのです。
 従って、私どもがそのようにどれほど罪深い存在であるかをはっきりと認めて、光り輝く主イエスの前にひれ伏し、主イエスの御声を聞くこと以外に望みはないのです。自分の声に従って生きるのではなく、預言者イザヤが語った通り、「これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け」(イザヤ30:21)と語られる、神の言葉に耳を澄まして生きていく。ここにしか、滅びゆく私どもの幸い、慰めはないのです。

 
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