この地で信仰のともしびを燃やし続けて65年、これからも主イエス・キリストをご紹介して参ります。

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「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」

 これは聖書に記されている神のみ言葉です。神の目差しの中に立つとき、ひとは、はじめて自分の価値に気づきます。どれほど尊ばれ、重んじられ、愛されていたのかを。そしてその神の愛がどれほどであるのかを、聖書はこう記します。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 これは過去のことではありません。神は生きておられます。生きて、今もなお、私たちひとりびとりをかけがえのない存在として愛していて下さいます。愛の働きを続けておられるのです。その神を、ご一緒に知ってゆきたいと心より願います。どうぞ礼拝にお越し下さい。

礼拝・集会案内

 

〈主日礼拝〉毎週 日曜日 10:30〜12:00ころ
 

 礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
 礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
 そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
 
   

〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
      *現在は成人のクラスのみとなっております。
 
  成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
 
 

〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
 
 「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れません。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのために、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
 黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりません。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当に素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
 
 
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
 
   

教会紹介

  私共は、プロテスタントの信仰に生きるキリスト教会です。
 1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
 今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
 
 もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
 
              

教会堂


 
 
                                
 
 

施設情報 

〈教会名〉静岡中央キリストの教会
〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25
〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます
〈       〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい)
〈牧 師〉中原道也 
〈伝道師〉中原一真

 
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
 
 
 
 
 

はじめての方へ

 
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
   信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
 
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
 
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
 
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
  せん。
 
  ※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
   りません。
 
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
     部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
     だくことも出来ます。ご安心下さい。
   
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
 
 

 
 
〈礼拝説教の要約〉

『天からか、人からか』
 サムエル記上8:4-22
 マタイ福音書21:23-27

 
 主は「宮清め」(マタイ21:12-17)の後、ベタニアに泊まり、翌朝都に帰る途中、葉ばかりで実のないいちじくに「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(:19)と宣告なさいました。この順序が大切です。私どももこの朝、主が清めてくださった庭に集い、主が語られる御言葉を聞くのです。
 この庭への近づき方は3通りあります。そのうち2通りは、既に読んだ「主に憐れみを乞う者」、「それを見て喜び叫ぶ子供」。この朝は3組目の「問いただす権威者」に注目します。
 権威者は「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(:23)と主に問います。「神殿やそこにおける商人の活動を許可し管理しているのは自分達、従って、尋ねる権利、その答えの正否を判断するのは我々だ!」これが彼らの心です。
 彼らが問うた時、主は「教えておられる」(:23)真っ最中です。主は「権威あるものとしてお教えになった」(7:29)と同じ福音書は記します。彼らはこの「権威」を問題にしているのです。主は答えます。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」(:24-25)途端に、〈問うもの・裁く者〉だった権威者が、〈問われる側・裁かれる側〉に変えられました。そして、この主の問いは既に答えを含んでいます。洗礼者ヨハネはかつて言いました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(3:11)ということは、ヨハネの洗礼が天からのものなら、ヨハネが指したお方も天からのものです。主は「あなた方は薄々わかっている。それならどうしてはっきりと判るようにならないのか!」と、問いの形で告げたのです。
 ここに〈信仰の始まり〉があります。問うているものが、神に問われていることに気が付く。キリスト者は、一生涯主に問われ続ける求道者です。
 私どもは、「御言葉は、資格がある者のものだ。私には縁がない」と思い続けてはいないでしょうか。謙遜のつもりで、実は、祭司長達の心と表裏一体です。「資格がないので深くは関わりません」と言っているのです。主の問いから身を引くのです。それでは御言葉は遠いままです。しかし実は、御言葉は資格のない者に示されるのです。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(11:25)と主が祈られた通りです。
 併せ読んだサムエル記上には、民の同じ心が記されています。民はあくまでも王を求めた。神は言われました。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(サム上8:7)「王が代わりに神の前に立てば良い。牧師がすればいい、口達者な人が祈りはすればいい。」神はこの民の願いを退けず、王を与えられました。恐ろしいことです。しかし神は遂に別の王を送られました。「ダビデの子」、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタ20:28)王です。その王が、清めた庭に立ち、信仰者たちに問うておられるのです。
 ヨハネの洗礼は、「悔い改めて神に返れ!」と呼びかけるものでした。すべての者への呼びかけです。何の区別もありません。祭司長たちも水辺には来ました。しかしヨハネは彼らに、「蝮の子らよ…悔い改めにふさわしい実を結べ。」(:7-8)と言い、彼らは「彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」(ルカ7:30)。ところがそこに降りたのが主イエスです。主が水から上られた後、「天がイエスに向かって開いた。・・・『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(3:16-17)天からの権威とは、まず、ヨハネの洗礼に先に降りられた方の権威です。人々と同じように主ご自身も、ヨハネにご自分を委ね、彼の手で沈められました。委ねる、沈められる。つまり、天からの権威は、天から授けられた権威です。
 祭司長達は「論じ合った」(:25)のですが、「自分たちの間で、自分たちの中で、論じ合った」という意味です。心の中で計算したのです。「天からと答えても、人からと答えても損をする。」彼らの関心ごとは人に何と言われるか、だけです。だから「分からない」(:27)と言いました。ちゃんと答えれば、自分が変わらなければならないからです。隠し持っているものを手放すことができないのです。
 主のお答えは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(:27)でした。拒絶ではありません。黙って、じっと見ておられるのです。裸になって降りてくるのを待っておられるのです。権威を巡る問いはもう一度出てきます。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」(26:63)これに対する答えで、主の十字架は決定しました。問いの答えは十字架でした。そして主はお甦りの後言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(28:18)十字架を通り抜けた向こうで、父から受けた権威です。
 問うておられる方は、私どもの罪の重さを全部ご自分で引き受けて、十字架に上られた方です。このお方の前で隠し持っているもの全てを手放す。面目は失います。しかし命を受けます。これが自由です。問われる喜びを知ります。これが洗礼の意味です。水に沈められて、自分に死ぬのです。主の命に生かされて、上がってくる。一度沈められたものは、日毎に何度でも沈められます。新しい自分に日毎に生かされます。これがキリスト者の本当の毎日です。
 私どもはあの3組のうち、どれかとして清められた庭に立っています。「私は本当に知りません。どうか教えてください。」そう幼子として問うのであれば、必ず答えられます。私どもはこう申し上げる他はありません。「主よ、問われることをずっと避けてきました…」と。そう認めるとき、主は言われます。「では、わたしも一つ尋ねる。」(21:24)これは恵みです。主は随分長いこと待っておられます。私どもが裸になって降りてくるのを。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩51:19)

『葉のほかは何もなかった』
 申命記10:12-11:1
 マタイ福音書21:18-22

 
 「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。」(マタイ21:18)主イエスはご自分の家に帰る途中、空腹を覚えられた。この空腹は、〈都と結びついた空腹〉です。神の都に実り、すなわちまことの信仰がないことに飢えておられたのです。
 その時、主イエスは道端にいちじくを見つけ、近寄られます。しかし、過越祭の季節(=春)であるため実はなっていなくて当然です。いちじくの実がなるのは初夏です。しかし主は、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(:19)と言われます。これは、信仰においては、主イエスが近づいてこられる時こそが、実を求められる時なのです。そして実のないいちじくは、〈神に背いた民〉を指します(エレ8:13)。いちじくと、あの神殿とそこで献げられている生きた実のない礼拝は同じものです。いちじくに対して、「もう実らせるな」と主イエスが言われたのは、〈宣告〉です。葉が覆い隠していた死を、宣告することで明らかにされたのです。
 聖書の記述に基づいて想像するならば、この「葉」とは、自分の知恵と力です。創世記第3章でアダムとエバは、神に背いた直後に、「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(3:7)「葉で隠せばいいのだ!神にも見えまい!」と言って恥を隠したのです。この〈自分の知恵と力を頼りにする信仰〉が〈自力の信仰〉となります。だから「神様、憐れんでください、ホサナ」とは叫びません。無力な子供とは違う、立派な大人だと思っているからです。このような信仰が「葉」です。
 私どもの教会はどうでしょうか。「私は大丈夫。」と安心して胡座をかいているなら、それもまた「葉」です。この教会の将来は、大人ではなく、小さな者たちにかかっています。
 主が飢えておられるのは、神の愛に応える心がないことへの飢えです。併せ読んだ申命記は神の愛を語ります。「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」(10:18)神の民の中にありながら勘定に入らなかった孤児や寡婦など、神にすがる以外、術を知らなかった者を、神は大切(*切々たる、胸に迫る思いであるものを大事にする意)にされたのです。この神に大切にされ、それに応えるのが実です。
 神の愛がないところには滅びしかありません。その滅びの中に立ち、それを取り去るために主は帰ってこられるのです。先ほどの創世記では、アダムとイブが自力で綴った葉に変えて、神は衣を作って着せてくださった(3:21)。皮の衣でした。つまりこの衣のために1つの命が失われているのです。主はこの衣を私どもに着せるために都に帰ってこられたのです。
 「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」(マタイ21:20)と弟子たちは驚きました。主は答えます。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」(:21)つまり、「木を枯らしたのは、私の力ではなく、生きて働く神の力だ。あなた方も同じ信じ方をするなら、同じことが起こる。」自力で覆った葉を、神が枯らしてくださる。神の前で裸にされ、乳飲み子にされるのです。「山」とは、神殿の丘・シオンだろうと思います。死んだ信仰しかない丘です。神の民の罪であるこの山を動かすために都に帰って行かれる。主の十字架と、復活と、そこから注がれる聖霊によりこの山は動くのです。
 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(:22)とは、こんなことまでも信じて祈るなら、という意味です。山のような自分の罪を自力で動かすことができない者が、それを取り除いて頂くことまでも求めて良い。それが得られると、主が約束してくださっている。
 私どもはよく、私の願いを〈祈り〉という言葉に乗せて、神に差し出す。そして「聞かれない…!」と呟きます。これは私どもの正直な声です。しかし、主の約束の言葉は、自分の中の山を忘れずに聞いて初めて真実の言葉になるのです。
 この約束は主において成就しています。いちじくは立ち所に枯れました。主は〈立派な大人の信仰〉が枯れることを求められた。それは既に聞かれたのです。だから、私どもは希望を持てるのです。
 自分勝手な願望が祈りなのではありません。主ご自身が教えてくださった祈りは、御名、御心、御国を祈り、その上で日々の糧、赦し、守り、地上のことを祈るものでした。その通り、主はあのゲッセマネで祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(同26:39) これが十字架へ向かう決意を生んだ祈りです。山を動かした祈りです。このように信じて祈るとは、神に、ご自身の御心を成し遂げて頂くことであり、その神の御心と私の心が一つとなることです。そのために、古い私から新しい私へと造り変えられることです。決まった時間の祈りに留まりません。生活が、全人生が祈りです。
 死んでいた神殿の後に新しく造られるのが、信仰だけで立つ新しい人間です。それが神がお住みになる宮です。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリ6:19)一人一人の小さな者が神殿です。「葉のほか何もない…」とわかった者を、主は求めておられます。その者を新しくするために主は命を注ぎ、死に勝たれ、復活されました。教会の将来は小さな者たちにこそあります。
 ゼカリヤは言いました。「武力によらず、権力によらずただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる。」(ゼカ4:7-6)山は「神の霊」によってのみ動きます。その時、小さな者が生きた神殿になります。
 この後、私どもは主の食卓につきます。飢えておられる主が、ご自分を食物として差し出されるのです。この食卓で、私どもは皮の衣を着せられ、生きた神殿とされるのです。

『まことの賛美は幼子の口に』
エレミヤ書7:1-11
 マタイ福音書21:12-17

 
 主イエスは「神殿」について「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21:13)というイザヤ書の言葉を引かれました。つまり神殿とは主ご自身の家です。神が預言者イザヤを通して「わたしの家」と言われた神殿に、独り子が入られたのです。
 「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」(:12)のです。ここにだけ記されている、激しく憤られる主のお姿です。
 ローマ貨幣を献金のためのユダヤ貨幣に替える両替人、貧しい者の献げものである鳩(*羊や山羊は高価)を売る者も、神殿に必要な人々です。当然の営みです。しかし主は、売る者も買う者も追い出されました。主は〈当たり前〉をひっくり返されたのです。
 「あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(:13)神殿に来て〈当たり前〉のことを果たして、そのことで自分は救われたと安心をする。神のものであるはずの救いを、自分のものとして入手している。自分なりのやり方で救いを確保するのです。これが〈強盗〉です。
 「追い出す」という言葉は、創世記第3章で神が、神よりも蛇の言葉に従ったアダムとイヴを園を追放したことを語った言葉と同じです。神に聞かずとも自分で分かる。この人間の姿と、神殿を追い出された人々の姿は、同じなのです。どちらも「強盗」です。
 それでは「祈りの家」とは何か。この日神殿に響いていた祈りが答えです。「ダビデの子にホサナ」(:9)。これは「神よ、どうか憐んでください、救ってください」という祈りです。自分では救えないから神に乞うのです。「祈りの家」は、「神に乞う者の家」です。
 「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」(:14)これは、主がこの家を〈乞う者たちの家〉として取り戻すためでした。この「目の見えない人や足の不自由な人たち」は、神殿の境内に入ることが許されない人々でした。(*その経緯はサムエル記下第5章参照)その人々が神殿の中にいるのです。神の前に出ることを許されなかった者たちが神の前に出ている。主が、人々の締め出しを覆されたのです。いるはずのない人々が今、神の子の癒しに預かり、神の家が「祈りの家」に戻されたのです。
 しかもこの人々は、「そばに寄って来た」だけです。何も鳩も買えず何も差し出せない、ただ乞う者でした。直前の第20章で、主に対し「憐んでください」(:30)と叫び、癒された二人の盲人は「イエスに従った」(:34)のです。従ってこの時も神殿に居たでしょう。主に憐れみを乞い、憐んで頂いた者だけが、この家に入ります。
  しかし、「他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て」(:15)ました。「不思議な業」は〈神ご自身の御業〉を言い表す旧約聖書以来の伝統的な言葉です。「主イエスの正体は神ご自身だった!」そう言っているに違いないのです。主の御業を見て子供たちは賛美しました。他方、祭司長・律法学者たちは同じものと見て腹を立てた。自分たちは救いを確保していると思ったから同じ言葉を口にすることができなかったのです。 
 この子供達が賛美したのは、子供の方が純粋だからではありません。だから純粋になりなさいと、努力を求めるのでもありません。神が、ものの数に入らない幼子の口に賛美を備えられたのです。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」(:16)(*詩篇第8編3節の御言葉)
 主はある時、「新鮮なぶどう酒は、古びた革袋には入れない。真新しい革袋に入れるものだ」と言われました。主は作り直しを求めているのではないのです。神殿でなさったことも、〈改善〉ではなく〈宣告〉です。「信仰だと思っているものはすでに死んでいる。そこに真実に神に乞う者の祈りはない。」だから、〈新しく生まれる他はない〉のです。
 「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」(:16)と詰め寄った祭司長・律法学者たちに、主は「聞こえる」(:16)とお答えになりました。原文では「然り」です。子供たちを肯定なさったのです。神の前に跪いて乞うことのできない立派な大人の祭司長たちは黙らされました。彼らの信仰は行き詰まったのです。
 「イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。」(:17)「彼らと別れ」は「彼らを後に残して、置き去りにして」という意味です。神の家に、神の御子が泊まる場所はなかった。その代わりに、忌み嫌われた病である皮膚病を患っていたシモンが住んでいた村・ベタニアに泊まられたのです。癒しを乞うものの家に泊まられたのです。
 神の家を強盗の巣にしていた人たちは、やがて自分たちを追い出したお方を追い出し、十字架につけます。同じ福音書が記す、〈農夫たちがぶどう園の主人の息子を放り出し殺すという譬え話〉とちょうど同じように。
 乞うことをしない者の代わりに外に放り出された方がいる。このお方の十字架の他に、エデンの園から追われた者が神の家に帰る道はありません。このお方は、再び神殿に言われます。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(21:38)「わたしの家」と呼ばれた家が、「お前たちの家」と呼ばれています。神は、強盗の巣となった家を捨てられたのです。
 神は、エゼキエルを通して「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」(エゼ36:26)と約束されたように、乞う者の内に、御霊によって住まわれます。パウロは「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)と言いました。乞う者に御霊を注がれ、神の御住まいとされるのです。神の住まいとされた者の口に賛美が備えられ、祈りの家とされるのです。
 「主よ、私どもはあなたの家を強盗の巣にしていました。ダビデの子よ、憐んで下さい」と告白する時、主が答えます。「然り。聞いている。幼子や乳飲み子の口に、私は賛美を歌わせた」。その時、門の外の乞食が、主の足元にいる。その口に賛美が与えられる。それが私どもの姿です。

『見よ、あなたの王が来る』
イザヤ書52:1-10
 マタイ福音書21:1-11

 
 「いったい、これはどういう人だ。」(マタイ21:10)都中の人々が口々に発した問いがこの問いです。これは礼拝に集い聖書を開く私どもの問いでもあります。
 一行がまもなくエルサレムに着く頃、主イエスはろばと子ろばを連れてくるように弟子たちに言われました。(:2)弟子たちはその通りにし、主は子ろばにお乗りになった。群衆は叫びます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(:9)本来は、都に住んでいる者が、来都者を歓迎する歌です(詩篇第118篇より)。しかしこの日は主イエスに向かって叫びました。「万歳!この方こそイスラエルの本当の王!」と主を迎えたのです。
 しかし、都中の者が「いったい、これはどういう人だ」と問うた時、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」(:11)と群衆は答えます。王と讃えた直後に、預言者と言う。つまり、自分が誰を迎えているのか本当にはわかっていないのです。同じ群衆は「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ盲人を黙らせようとし(20:29以下)、ここでは自分たちが「ダビデの子よ」と叫び、最後には「十字架につけろ」(27:23)と叫ぶ。吹く風の如く変わります。これは私どもの姿です。〈私を納め支配するただひとりの王〉として大切にするものは、自らの1日を王の言葉を聴いて始めるものです。困った時の救いだけは王に求め、それ以外の日々は王の言葉を蔑ろにするのです。
 しかし、何もわかっていない群衆の叫びを、主は止められませんでした。「主の名によって来られる方」(:9)としてエルサレムに入城する時が、来たからです。主はご自分の弟子にろばを用意させて都に入られた。子ろばです。軍馬ではありません。よろよろしていたかもしれません。しかも借り物のろばです。人から借りなければ都に入ることすらできない見窄らしい王の姿。群衆が考えていた王の姿とはまるで違うのです。
 この王の姿を言い表したのが、「柔和な方」(:5)です。「貧しい・苦しめられた・打ちひしがれた」という意味です。イザヤ書第53章、「彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」(:4)「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。」(:7)この2つの御言葉の「苦しんでいる」、「課せられて」と同じなのです。主イエスご自身も、「わたしは柔和で謙遜な者だから・・・」(マタ11:29)と言われました。仇する者から傷つけられることを甘んじて受ける。これがこの王の柔和です。
 これこそまことの強さです。「都中の者が・・・騒いだ」(同21:10)は「揺れ動いた」という意味です。つまり地震です。主がお生まれになりヘロデ王が不安に揺れ動いた時(同2:3)、息を引き取られた時(27:51)、復活の朝(28:2)にも同じ言葉が使われています。都を揺れ動かす力を持ったお方が、傷つけられること自ら選び取る。「 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:28)この言葉を、身をもって人に示されたのです。
 この王の苦しみは、神の支配をもたらすための苦しみです。主イエスのご生涯は「天の国は近づいた」(3:2)こと、つまり〈神が王として治めてくださる〉ことを告げるものです。しかしそれに立ちはだかるのが、神の民自身の中にある罪です。だからこの戦いは都で起こります。王が、傷つけられ殺される。それがこの王の戦い方です。「あなたの神が王となられた!」と告げる今朝併せ読んだイザヤ書第52章の終わりから、〈苦難の僕〉の歌(第53章)が始まる。神が王となられるその仕方が、僕の苦しみなのです。
 〈過越祭〉を祝おうとする都で、王が〈過越の子羊〉としてご自分を捧げようとしておられる。この王の苦しみによって新しい神の民が生まれようとしています。しかし、群衆も弟子たちも、このお方を王として見分けはしませんでした。見分けたのは子供達です。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」(21:16)とはそのことです。幼子(第19章)、盲人(第20章)、これらの人々について主はかつてこう祈られました。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(11:25)神の前での無力・無知、神に与えられなければ今日を生きることができないことを識っている乞食だけが、貧しい王をまことの王として見抜きます。自分と同じ姿にまで、この王が低くなってくださったからです。
 聖書は言います。「お前の王がお前のところにおいでになる。」(21:5)あなたを治め、あなたのために傷つき、あなたの罪と死を担うために。あなたと同じ貧しい姿で。私どもはすでに神の前で立派に振る舞ってきました。「神の助けはいらない!」と。私どもに本当に必要なのは自らの貧しさを識ることです。そこに、子ろばに乗る王はひっそりと来られる。この王の前で、自分の誇りも正しさも捨てるのです。それが王を迎えることです。その者は識るようになります。自分が捨てた、一番醜いところを、このお方が踏んで十字架に向かわれる。私どものために。この柔和なお方に向かって、私どもは申し上げます。「あなたこそ、私の王です」と。

 
 

〈日々想うこと〉

数日前、山間の道路を走っていたら飛び出してきました。
なんのお尻でしょう・・・???

ひまわりが咲きました。それぞれ異なった土壌に植えたそうです。同じ時に植えた種なのに育ちがこんなに違います。土壌が、とても重要です。
 
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。・・・良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイ福音書第13章より

プランター植え。

 

花壇に植えたものは、天高く、スクスク育ちました。

近所にブドウ畑があります。こんなにたくさんの実がなっていました。これだけの実は何本の幹から実るのかと思い、数えました。幹は、たった一本でした。主イエスのお言葉を思い起こしました。
 
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」- ヨハネ福音書15:5 -

幹はたった一本。

  

実は教会にもぶどうがあります

   

教会のぶどう


 

 私が敬愛する牧師に、高倉徳太郎という人がいます。最近、主日礼拝の説教を聞いていて、高倉牧師の説教を思い起こすことがよくあります。今日はその中の1節をご紹介します。 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ書4:9)という御言葉の説教ですが、次のような趣旨です。「私どもはくまなく赤裸々に神に知られている。これは実に厳粛なこととして畏れるべきです。同時に感謝し尽くせないことです。・・・神に知られていることを真実に知った時ほど、私どもの心が低くさせられることはないのです。私どもは神の前に、何を自分の業として誇ることができますか。私どもにはただ、汚れと無力があるのみです。神を離れて何事もなすことができないとは、神に知られていることを知っている者の偽りのない告白です。・・・今私の心を新たに動かすものは、神の恵み、すなわち、キリストの知遇(取るに足りない自分を知っていてくださること)です。・・・私にもし誇るところありとすれば、それは主イエスが自分を知っていてくださるということだけです。ここにも、自分が「迷い出た一匹の羊」であること、その自分を命懸けで見つけ出してくださる羊飼いのことを深く知っている信仰者の告白の言葉があると、改めて感じ、自分を顧みさせられています。

 
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