この地で信仰のともしびを燃やし続けて65年、これからも主イエス・キリストをご紹介して参ります。

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「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」

 これは聖書に記されている神のみ言葉です。神の目差しの中に立つとき、ひとは、はじめて自分の価値に気づきます。どれほど尊ばれ、重んじられ、愛されていたのかを。そしてその神の愛がどれほどであるのかを、聖書はこう記します。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 これは過去のことではありません。神は生きておられます。生きて、今もなお、私たちひとりびとりをかけがえのない存在として愛していて下さいます。愛の働きを続けておられるのです。その神を、ご一緒に知ってゆきたいと心より願います。どうぞ礼拝にお越し下さい。

礼拝・集会案内

 

〈主日礼拝〉毎週 日曜日 10:30〜12:00ころ
 

 礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
 礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
 そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
 
   

〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
      *現在は成人のクラスのみとなっております
 
  成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
 
 

〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
 
 「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れまん。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのめに、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
 黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりまん。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
 
 
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
 
   

教会紹介

  私共は、プロテスタントの信仰に生きるキリスト教会です。
 1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
 今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
 
 もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
 
              

教会堂


 
 
                                
 
 

施設情報 

〈教会名〉静岡中央キリストの教会
〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25
〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます
〈       〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい)
〈牧 師〉中原道也 
〈伝道師〉中原一真

 
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
 
 
 
 
 

はじめての方へ

 
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
   信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
 
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
 
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
 
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
  せん。
 
  ※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
   りません。
 
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
     部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
     だくことも出来ます。ご安心下さい。
   
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
 
 

 
 
〈礼拝説教の要約〉

『手を置いていただくために』
レビ記18:1-5
 マタイ福音書19:13-25

 
 「イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た」(マタイ19:13)とあります。「子供」は当時数に入れられない存在、世においても信仰の歩みにおいても誇れるものなど何一つない存在でした。ただあの方に手を置いて祈って頂くことだけが、この子達の拠り所であり、「人々」はそのことを識っていたのです。
 しかし、弟子たちはこの「人々」を叱りました。「叱る」と訳されている言葉には、「値」という意味が響いていると言われています。弟子たちは、「子供なんか手を置いて頂く値打ちはない!」と叱ったということです。この後ペテロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(:27)と言いました。「自分たちにはこのお方の傍らに立つ資格がある!」そう思っていたということです。
 しかし主イエスは、「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(:14)とお答えになりました。天の国・神による支配は、人が自分の優れたもので獲得するものではなく、神の独り子に手を置いて頂くもの、つまりただ受けるものなのです。
 「そこを立ち去られた」(:15)主イエスに一人の人が近寄り、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(:16)と問いました。この「たくさんの財産を持っていた」(:22)青年は「得る」ために「する」ことを問うたのです。どこまでも、自分の善い行いで獲得する報酬(=請求書)に基づいて、信仰生活を生きているということなのです。
 主イエスはお答えになります。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(:17)ここで二つのことが語られています。一つは、「私の掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ18:5)とあるように、掟は〈命への道〉なのです。つまり主イエスは青年に「〈自分で行う〉ことで〈命を得る〉とあくまでも言うなら、やってみろ。その代わり1点の欠けもない完璧な服従まで自分でいくほかはない!できるというのだな?」と仰っている。二つ目は、「どの掟ですか」(:17)と問われ、主イエスは〈モーセの十戒〉の後半をお示しになったことです。十戒の前半は、「神を真実に神とせよ!」という掟、これが「善い方はおひとりである。」(:17)という言葉の意味するところです。つまり、「あなたが善い業を積み上げることではない。おひとりの善い方を神とするかどうかに懸かっている。」ということなのです。同じ場面を記すマルコによる福音書は「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と記します。主イエスは突き放しておられるのではなく、慈しんでおられるのです。
 「完全」(マタイ19:21)という言葉は、他に〈山上の説教〉の一節「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(5:48)にしか出てきません。そして〈天の父の完全〉とは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)つまり、恵みの完全・愛の完全です。青年の言う完全は自分で満点に近づく完全、主イエスが言われるのは神の恵みの中で生きる完全だったのです。
 その上で、「全財産を、売り払え」と言う主の御言葉を軽んじてもなりません。これも神の言葉なのです。途方に暮れてしまうのは青年だけではないはずです。しかし同時に、使徒パウロは言いました。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリ13:3)全財産を売り払うこと自体が〈救い〉ではないのです。自分の財産、資格、実績、一所懸命にやっている自分自身が、恵みの神を見えなくしていたのです。主イエスは言われるのです。「全て手放して空っぽになってごらん。その時、圧倒的な神の恵みが見えるはずだ。そのあなたに、手を置いて祝福してあげたいのだ。『それから、わたしに従いなさい。』(マタ19:21)
 主イエスはすでに同じ言葉を言われたことがあります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失う・・・。」(同16:24,25)〈自分を捨てる〉、つまり空っぽになるのです。富める青年にとって自分を捨てるとは、全財産を手放すことだったのです。
 「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。」(同19:22)その人にとって命と思えるものが多いほど、手放すことができないのです。この青年は命を失う方へと歩み出した。それを主イエスは深い悲しみの中で見送ったのです。この物語は閉じられないまま、一人一人の前に置かれているのです。
 その後主イエスは言われます。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(:23,24)〈金持ち〉とは、自分の財産、資格、実績、奉仕年数等々で神の前に立とうとする者です。誰も例外ではありません。何もかも捨てたと言う捨てっぷりさえ〈資格〉にしていた弟子たち。だからこそ、「それでは、だれが救われるのだろうか」(:25)と驚いた。絶望の嘆息です。しかし、これこそ、救いの出発点、砕かれた者の声です。
 「誰が救われるのか。」この問いに主イエスは答えずにまっすぐエルサレムへ向かわれます。この問いの答えをご自分の存在で示されました。十字架の上で、自分を捨てて空っぽになったのは、私どもに手を置いて、神の祝福をもたらすためでした。
 かつて主イエスが言われた「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(18:3)とは、神の前で何の資格も持たずに、ただ手を置いて頂きに行くことです。自分を捨てて、空っぽになったところにこそ、主イエスの祝福は場所を持ちます。
 毎週の礼拝の最後の〈祝福〉も、あの時子供の上に置かれた主イエスの手が、2千年の時を超えて、私共一人一人の上に置かれているしるしなのです。そのために、ここに集められているのです。主イエスは、空っぽになった自分を差し出すものを、あなどられません。

結び合わせてくださるお方
 創世記2:17-25
 マタイ福音書19:1-12

 

 「七の七十倍赦すのが無理なら、そのまま私についてきなさい。エルサレムまで。」これが先週聴いた主イエスの御声です。「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」(マタイ19:1)ここから、主イエスは十字架に向かって〈最後の旅〉の第一歩を歩み出されます。
 「大勢の群衆が従った」(:2)のは〈過越の祭り〉に参加するためです。つまり巡礼の列の中に主イエスはおられる。そして、「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」(:1)のです。「ヨルダン川の向こう側」はヘロデ・アンティパスの領地です。自分の弟の妻との結婚を洗礼者ヨハネに罪と指摘されて、彼の首を刎ねた人物です。(同第14章参照)その地で、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った」のです。(:3)主イエスが曖昧な答えをすれば厳しさがないと非難し、厳しくお答えになれば、洗礼者ヨハネと同じ運命に追い込む口実となる、周到な問いです。そして問いというのは、問う者の正体を明らかにするものなのです。
 明らかにされた正体とは、常に〈理由探し〉をしている者の姿です。「何か理由があれば」(:3)とある。何か理由を見つけて離縁することを正当化しようとしているのです。当時離縁する力を持っていたのは夫の側だけでした。妻は捨てられるだけだったのです。そして夫の側の理由については当時から様々な真面目な議論がなされていました。自分の正しさを少しも疑わない(=正しい九十九匹)の側の人間が、自分の側に理由を積み上げる行為です。私どもがよく知っていることです。
 主イエスのお答えは、そもそも土俵が違うお方の答えでした。天地創造まで遡り「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。・・・それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(:4~6)一体とは上下関係がなく、〈あなたの得〉と〈私の損〉は別々ではなく、一つの単位として神の前に立つということです。また、「離してはならない」とは引き離す力を持った夫に対する言葉です。そして、「結び合わせてくださった」というのは、「一つの軛に繋ぐ」という意味です。同じ軛に繋がれた2頭の牛は同じ方向にしか歩けません。この二人を導くお方・主イエスは言われました。「私の軛を負い、私に学びなさい。」(11:29)いつでも上手くいっているとは限らない、むしろ祈ることで辛うじて繋がっているような夫婦の罪を、主イエスが負っていてくださる。二人で、主イエスに「我らの罪をも赦したまえ」と並んで祈り歩むのです。
 ファリサイ派は「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」(:7)と反撃し、主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(:8)と訂正されました。つまり、彼らは勝手に〈命令=「命じた」〉に変えたのであって、実は〈許可=「許した」〉だったのです。モーセは、「心の頑な(=硬い)男は妻を去らせるから、それならせめて・・・」と捨て方に制限を設けたのです。神の律法は初めから捨てられる側に立っているのです。
 主イエスは続けます。「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(:9)今度は弟子たちが反応します。「夫婦の間柄(=夫婦である理由)がそんなものなら、妻を迎えない方がまし(=得)です。」(:10)つまり、弟子たちもファリサイ派と同じく〈理由探し〉をし、〈損得〉を考えているのです。
 しかし、主イエスは、同じ「まし」という言葉を天と地ほども違う意味で使われました。「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(18:6)弟子たちのように自分は鐚一文損をしないための「まし」ではなく、「小さな者一人」のためにご自分が損を引き受ける「まし」なのです。
 今朝も必要な用心は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(:6)という主イエスの御言葉を他者に〈請求書〉として突きつけることは許されないということです。主イエスは捨てられるものを守るために言われたからです。〈請求書を突きつける行為〉は突きつけた人がその負債を負うことと同じです。請求書の帳消しは宙に浮いてなくなることではなく、帳消しにするためにその負債を負われるお方がただお一人だけおられるということは先週も確認した通りです。
 「割に合わない」と呟く弟子たちに、主イエスは「だれもがこの言葉を受け入れる(=場所を作る)のではなく、恵まれた者(=与えられている者)だけである。」(:11)と答えられます。それに続けて3種の独身者についても区別をせず同じ地平で述べておられる。つまり「結婚も独身も割に合うから選ぶのではなく、与えられて受け容れる賜物だ」と言われているのです。この賜物は、自分の考え、願い、帳簿で埋まっている心には受け容れる「場所」はありません。〈砕かれた心〉の中にこそその「場所」があります。主イエスは「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(:12)と話を結ばれます。「与えられているものを賜物として受け容れることのできる人は受け取りなさい」ということです。
 他者のために自分の損を引き受ける方向で、「まし」と言われたお方は、実際に十字架上で、その損を引き受けられました。自らの足で、「多くの人の身代金として、自分の命を献げ」に旅立たれました。その主が、中々〈損得〉を問うことをやめない私どもに語りかけています。「私が払う。あなたがたはただで受け取りなさい。そしてついてきなさい、エルサレムまで。」
『赦しが届くとき』
 申命記24:17-22
 マタイ福音書18:21-35

 
 「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。この主の祈りの一節を、重荷と感じるのではないでしょうか。「赦して頂くために、一所懸命、赦さなければいけない」と思うからです。しかし今朝の御言葉はこの重荷の正体を明らかにし、それを下ろす場所へ私どもを連れて行きます。
 ペテロは、「そのとき・・・『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』」(マタイ18:21)と問いました。つまり、第15節の「兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・・」という主イエスのお言葉を繰り返しながら、兄弟の罪を問題にしているのです。これは私どもの姿です。私どもも、「罪」と聞けば、すぐに他者が自分に犯した罪を思い浮かべるのです。
 実はペテロの問いは気前の良い問いなのです。当時の聖書の教師たちは赦しを「3回まで」と教えていたからです。しかし、それでも赦す回数を数えていることに変わりはないのです。
 主イエスも「七の七十倍までも赦しなさい。」(:22)と言われましたが、「490回まで」ということではないのです。これは旧約聖書に基づいており、人間最古の〈復讐の歌〉である〈レメクの歌〉(創世記4:23以下参照)の替え歌なのです。復讐の歌を、赦しの歌に変えられたのです。
 そのことを一層明らかにしているのが、譬え話です。「ある王が・・・決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。」(:23,24)1万タラントンは、一般庶民の日当で言えば20万年分の賃金です。そもそも返済不可能な額なのです。主イエスはかつて言われました。「人は・・・自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(16:26)つまり、1万タラントンは、人が自分の命を滅びから救うために払える身代金は存在しないのだということなのです。
 しかし、家来はしきりに願いました。「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(:26)と。返済不可能だということを認識していないのです。これは私どもの姿です。神の前で、自分の善意、誠意、申し立てで勝負をしたいのです。埋め合わせをしようとするのです。
 しかし、「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(:27)のです。家来は〈猶予〉を願ったのに、主君が与えたのは〈帳消し〉でした。神の恵みは、私どもの願いの出来栄えを、いつも追い越していくのです。
 しかし、この家来は、「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。」(:28)自分があれほどの赦しを受けながら、何一つ変わらない無感覚、これは誠に不気味です。主君に一応平伏し、赦しの宣言も聞きました。けれども恵みは届いていないのです。詩篇の言う「打ち砕かれた霊、・・・悔いる心」(詩篇51:19)にはなっていないのです。結局は〈形だけの悔い改め〉なのです。
 「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。」(:31)とあります。このことが、滅びと救いに関することだからこそ、〈仲間たち〉は主君に直訴したのです。これは神にしか関わることのできない問題だからです。罪の被害者本人ではない第3者が、本人(=家来)を諭す道は与えられていないのです。そして彼らの〈心の痛み〉は、〈形だけの悔い改め=差し出された赦しを受け取り損ねている男〉に関するものです。「せっかく赦しの言葉を聞きながら、このままではこの家来が滅びの中にいるままだ・・・」そう悲しんでいるということです。「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(:14)と主イエスが言われた、天の父の御心に重なる思いがここにあるのです。そして逆に、〈形だけの悔い改め〉をそれで良いではないかと肯定する、偽りの優しさを、すでに主イエスははっきり否定されました。ご自分の十字架を予告された主イエスを、自分の善意に基づいて諌めたペテロに、主イエスは言われました。「神のことを思わず、人間のことを思っている。」(:23)
 ここまで見てきたように、赦しは差し出されたにも関わらず、それが家来には届いていないのです。だから自分の家来を赦せなかった。そして「主君は怒って・・・家来を牢役人に引き渡した。」(:34)そう譬えを締め括り、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(:35)と主イエスは言われます。これはこれまでの文脈を踏まえるのなら、自分で自分を赦されない場所に縛り直しているということです。無罪放免の恵みの取り消しではないのです。さらに注意すべきことは、「あなたが赦されたように、赦しなさい!」と第三者に突きつけるのは主イエスの言葉の悪用です。無罪放免された事を、誰かに〈請求する自由〉として悪用しているのです。その時点で恵みが恵みでなくなっているのです。仲間たちはそうはせず、恵深い王に委ねたのです。
 また、赦しは〈信頼の回復〉、〈交わりの即回復〉、〈罪を罪と呼ばなくすること〉、いずれでもありません。そのような〈偽りの優しさ〉は、人を癒さず、立ち上がらせず、最も傷ついている人へのツケとなって請求されます。憐れみ深い王が「不届きな家来だ」(:32)と言って、罪を罪と呼んでいるのです。本物の憐れみはその上で、全てを引き受けることなのです。先週の箇所で命じられていたことは、罪をつげるとこまで、です。兄弟を得ることになるかどうかは、「聞き入れるかどうか」にかかっているのです。(:15以下参照)「得る」ところまでは負わされていないのです。
 「心から」赦すことは〈砕かれた心〉の中に、神が時間をかけて結ばせてくださる実です。第三者がそれを要求したり、実がなってないと外から断定することは許されていません。神に対する越権行為だからです。
 そもそもこの譬えは、〈叱責〉ではなくて、「自分は赦せない・・・愛せない・・・」と悲しむものに「あなたにも出来る!」とその秘密を明かしています。王は言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(:33)この「べき」は「そうする以外に道がない」という意味です。当然の如く水が高いところから低いところに流れ出るように、主イエスによって一人一人に届けられた赦しが、溢れて、出ていくのです。溢れ出るまでには足りないなら、〈受け取る〉ことに集中すれば良いのです。
 帳消しされたものは、誰かが代わりに払うのです。譬えでは王が自分で払ったのです。次の第19章は「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り」(:1)と続きます。最後の旅が始まるのです。1万タラントンの負債は、旅の最後、エルサレムで、十字架上で支払われました。だから、私どもは毎週祈るのです。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく(*原文では我らも赦しましたように)」これはすでに受け取った赦しの確認の言葉です。赦しが届いているなら溢れさせて頂き、まだ、ほんの少ししか流れ出さないのなら、砕けた心をそのまま王の前に持っていくのです。その心を、「神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)

わたしもその中にいる
詩篇94:1-9
 マタイ福音書18:15-20


 「私がその一匹です」そう告白して見出されたものは、歩き出します。「兄弟」のところへ向かうのです。主イエスは言われます。「さて、あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したら、行け!あなたと彼との間だけで指摘せよ、過ちを明らかにせよ。もし彼があなたに聞き従うなら、あなたは自分の兄弟を得たのである。」(マタイ18:15*原文直訳)この「得た」という言葉は、「儲ける」という意味の言葉です。つまり、主イエスは、「兄弟」が見つけ出されて帰ってくること、それが儲けだと言われている。その「兄弟」とは、迷い出た一匹なのです。
 「忠告する」などと聞くと私どもは抵抗するかもしれません。しかし、それは天の父の御心なのです。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(同:14)だから、行くのです。
 しかも、兄弟の元へ行くのは、〈九十九匹の中の一匹(=正しい一匹)〉としてではなくて、〈見つけて頂いた一匹=(滅びに晒されていた一匹)〉として、です。だから、この一匹が兄弟に語る言葉は次のようになるでしょう。「私のことを見つけ出してくださったお方は、あなたのことをも探しておられます。」つまりここで言われている忠告は、裁きではなくてむしろ〈愛の戒め〉なのです。
 詩第94篇はこの幸いを歌っています。「いかに幸いなことでしょう主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は。」(:12)兄弟の口を通して、主の愉しが届くのですから、幸いなのです。主イエスは資格のある者に「行け」といわれるのではなく、罪人のために命を注ぎ出してくださった主が、見出された罪人を、罪人の元へと遣わされるのです。
 しかしなぜ「二人だけのところで・・・」(同:15)なのか。それはその人の名誉のためである以上に、実は、羊飼いと兄弟の二人だということなのです。つまり、探索の業をしておられるのは主ご自身なのです。忠告の言葉を与えてくださるのも、兄弟の悔い改めの言葉を聞いていてくださるのも、主ご自身なのです。ですから、「聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(同:15)とありますが、この時羊飼いは一度に二匹得ているのです。見出された羊と、その羊が遣わされた兄弟です。どちらも羊飼いのものです。
 「行け」と命じられる羊飼いは、ご自分がなさる探索の業に、羊を用いてくださるのです。私共一人一人を、羊のまま、それぞれの生活の場へと遣わしてくださっているのです。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。」(同:16)とあります。これは相手を圧倒するためではありません。別の目で見ることのできる兄弟の力によって、語られる忠告(=愛の戒め)が真理となるためです。また、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(同:17)ともあります。ここまで来たら追放というのではありません。これは手に負えないものを、羊飼いの手に委ねることです。この言葉を記したマタイ自身が徴税人でした。そして、主イエスは世間から「徴税人や罪人の仲間だ」(11:19)と言われるほど、彼らと食事を囲み親しい関係を持たれたことからもわかります。
 この〈委ねる〉ということを、主イエスが支えてくださっています。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(同:18)この御言葉の重心は「解く」ほうであり、これは福音・赦しを宣言することです。これが教会に委ねられた業なのです。
 さらに、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(同:19)と主イエスは続けられます。「忠告と赦しが本当に起こるのだろうか」と疑う私どもに、「はっきり言って」くださるのです。念を押してくださる。
 そもそも「二人」とは誰でしょうか。〈罪の忠告をした者〉と〈聞き入れた者〉です。その二人が願い求めること、それは、あの〈主の祈り〉です。「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をも、ゆるしたまえ。」二人で共に、罪の赦しを祈り願う。だから、この二人に上下関係はないのです。この祈りに答えてくださるために、父は独り子の命を代償とされたのです。だから主イエスご自身が言われるのです。「わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
 私どもはいつの間にか、自分を〈九十九匹の側〉に置いていないでしょうか。自分を自分なりにやっている優等生だとは思っていないのでしょうか。その時、「心を一つ」にして、あの〈主の祈り〉を祈ることは決してできないのです。先週も思い起こしたパウロは、お甦りの主によって〈九十九匹の側〉から〈捜し出された一匹〉の側にひっくり返された人です。同じ主が私どもの前にも立っておられる。パウロと同じように立ち位置を変えられるのです。そこで初めて、〈われらの罪をも赦したまえ〉という祈りが、一つの歌となって立ち上がるのです。これが教会堂を揺さぶる歌です。主に打ち倒され、見つけて頂いた者たちの歌なのです。
 そのような群れの「ど真ん中」(原文)「わたし(=主イエス)もいるのである」(同:19)と主イエスは言われます。ここに集まる私どもの全てが、体も魂も全てが、このお方に拠るのです。そして「ど真ん中」に主イエスが立っていてくださるから、教会の愛の交わりは立つのです。私どもの愛が強いからではないのです。
 主イエスは、見つけて頂いた羊の群れのど真ん中におられる。ここで「わたしも・・・いる」という主イエスの御言葉を記した福音書はその初めには「インマヌエル−神は我々と共におられる」(同1:23)と、そして終わりには「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28:20)と記しました。つまり今朝の御言葉は、この福音書の柱です。主イエスが共にいてくださるのは罪・忠告・和解という生々しい教会の現実の場なのです。
 罪の現実の前で祈りの言葉すら出てこないこともある私どもです。その時、〈主の祈り〉を祈れば良いのです。私どもに先立って、この祈りを祈り続けていてくださるお方、ど真ん中におられるお方の前で。

 
 

〈日々想うこと〉

ひまわりが咲きました。それぞれ異なった土壌に植えたそうです。同じ時に植えた種なのに育ちがこんなに違います。土壌が、とても重要です。
 
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。・・・良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイ福音書第13章より

プランター植え。

 

花壇に植えたものは、天高く、スクスク育ちました。

近所にブドウ畑があります。こんなにたくさんの実がなっていました。これだけの実は何本の幹から実るのかと思い、数えました。幹は、たった一本でした。主イエスのお言葉を思い起こしました。
 
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」- ヨハネ福音書15:5 -

幹はたった一本。

  

実は教会にもぶどうがあります

   

教会のぶどう


 

 私が敬愛する牧師に、高倉徳太郎という人がいます。最近、主日礼拝の説教を聞いていて、高倉牧師の説教を思い起こすことがよくあります。今日はその中の1節をご紹介します。 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ書4:9)という御言葉の説教ですが、次のような趣旨です。「私どもはくまなく赤裸々に神に知られている。これは実に厳粛なこととして畏れるべきです。同時に感謝し尽くせないことです。・・・神に知られていることを真実に知った時ほど、私どもの心が低くさせられることはないのです。私どもは神の前に、何を自分の業として誇ることができますか。私どもにはただ、汚れと無力があるのみです。神を離れて何事もなすことができないとは、神に知られていることを知っている者の偽りのない告白です。・・・今私の心を新たに動かすものは、神の恵み、すなわち、キリストの知遇(取るに足りない自分を知っていてくださること)です。・・・私にもし誇るところありとすれば、それは主イエスが自分を知っていてくださるということだけです。ここにも、自分が「迷い出た一匹の羊」であること、その自分を命懸けで見つけ出してくださる羊飼いのことを深く知っている信仰者の告白の言葉があると、改めて感じ、自分を顧みさせられています。

 
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