この地で信仰のともしびを燃やし続けて65年、これからも主イエス・キリストをご紹介して参ります。

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「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」

 これは聖書に記されている神のみ言葉です。神の目差しの中に立つとき、ひとは、はじめて自分の価値に気づきます。どれほど尊ばれ、重んじられ、愛されていたのかを。そしてその神の愛がどれほどであるのかを、聖書はこう記します。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 これは過去のことではありません。神は生きておられます。生きて、今もなお、私たちひとりびとりをかけがえのない存在として愛していて下さいます。愛の働きを続けておられるのです。その神を、ご一緒に知ってゆきたいと心より願います。どうぞ礼拝にお越し下さい。

礼拝・集会案内

 

〈主日礼拝〉毎週 日曜日 10:30〜12:00ころ
 

 礼拝は、どなたでも参加できます。「教会ってどんなところだろう?」「何をしているのだろう?」と興味をお持ちの方は、是非、日曜日の礼拝においでください。
 礼拝で使用する聖書や讃美歌は、教会でご用意してあります。また礼拝の中で献金がございますが、自由な意志に基づくもので、要求されるようなことは、一切ございません。
 そのほか、お分かりにならないこと、不安なことなどは、いつでもご案内いたしますので、どうぞご安心ください。
 
   

〈教会学校〉毎週 日曜日 9:45〜10:20
      *現在は成人のクラスのみとなっております
 
  成人のクラスは、その日、礼拝で説かれる聖書の言葉を、よりよく理解できるように、牧師が、対話形式で、前もってお話をしています。
 
 

〈オンライン黙想会〉木曜日 19:00〜20:30(月2回・不定期で行っております)
 
 「こんなに長い時間、黙っているの?」と思われた方がいらっしゃるかも知れまん。「黙想」を言い換えますと、「聖書の言葉に思いを巡らす」ことです。そのめに、必要があれば10分程度、黙っていることもあります。
 黙想会では、牧師が、一方的にお話をしたり、教えたりすることは考えておりまん。参加者が、同じ聖書の言葉を読み、思いを巡らし、共に語り合うことを目指しています。神の言葉(聖書)を真ん中にして、ひとが、共に語り合うとき、本当素晴らしいときを共有することができます。どうぞお越し下さい。
 
 
*黙想会の開催日は、月によって多少変動のある場合がございますので、〈お知らせ〉でご確認をお願い致します。
 
   

教会紹介

  私共は、プロテスタントの信仰に生きるキリスト教会です。
 1961年、米国での学びを終えて帰国した初代牧師の家族礼拝から始まりました。もともとは、故郷に戻り、教会を建設するつもりでした。しかし、ふさわしい土地がなく、つながりのあるこの静岡に一時的に身を寄せていました。そして、機会が訪れるまでのつもりで始めた日曜学校に、それは多くの子供たちが集まり、やがて、その子供たちを残して故郷に帰ることが出来なくなったのです。こうして、静岡中央キリストの教会が始まりました。
 今年、創立65年目を迎えております。教会の中では、まだまだ若い部類に入ると思っておりますので、これから、いよいよ深く、豊かで、成熟した歩みを目指して参りたいと願っております。
 
 もともと大工仕事に覚えがあり、留学中も、学費を稼ぐために大工仕事で慣らした腕で、最初の教会堂は、そのほとんどを牧師夫婦が、みずからの手で建てました。その愛着のある旧会堂から、現在の会堂へ建て替えて28年目になります。少し年季が入ってきましたが、アメリカから資材をすべて取り寄せて建てた、どこか異国の香りがする可愛らしい建物です。
 
              

教会堂


 
 
                                
 
 

施設情報 

〈教会名〉静岡中央キリストの教会
〈住 所〉〒422-8071 静岡市駿河区豊原町9-25
〈 ☎ 〉054-285-1476(迷惑電話防止のためガイダンスが流れます
〈       〉shizuoka.c.c.o.c[at]gmail.com (スパム防止のため[at]を@に書き直して送信して下さい)
〈牧 師〉中原道也 
〈伝道師〉中原一真

 
*私どもプロテスタント教会は、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界平和統一家庭連合)とは、全く関係がありません。
 
 
 
 
 

はじめての方へ

 
Q.教会は誰が行ってもいいのですか?
A.教会は、信者でなくても来ることができます。
   信仰、その他、強要されることは、一切ありません。
 
Q.初めてですが、それでも良いのでしょうか?
A.もちろんです。是非、礼拝にいらしてください。歓迎いたします。
 
Q.礼拝には、何か必要なものはありますか?
A.聖書、讃美歌を使いますが、教会で用意しております。
 
Q.参加費はあるのですか?
A.いいえ、ございません。入場料、受講料、その他、料金を請求することは一切ございま
  せん。
 
  ※礼拝の中で〈献金〉がありますが、自由な意志に基づくもので、求められることはあ
   りません。
 
Q.小さい子どもがいるのですが。
A.どうぞ一緒に来て下さい。礼拝に参加しながら、気兼ねなく親子で過ごしていただける
     部屋もございます。あるいは、子どもの専門家もおりますので、お子さんを預けていた
     だくことも出来ます。ご安心下さい。
   
Q.駐車場はありますか?
A.教会堂の前が、駐車場になっております。
 
 

 
 
〈礼拝説教の要約〉

『見よ、あなたの王が来る』
イザヤ書52:1-10
 マタイ福音書21:1-11

 
 「いったい、これはどういう人だ」(マタイ21:10)都中の人々が口々に発した問いがこの問いです。これは礼拝に集い聖書を開く私どもの問いでもあります。
 一行がまもなくエルサレムに着く頃、主イエスはろばと子ろばを連れてくるように弟子たちに言われました。(:2)弟子たちはその通りにし、主は子ろばにお乗りになった。群衆は叫びます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(:9)本来は都に住んでいる者が、都に来た巡礼者を歓迎する歌です(詩篇第118篇より)。しかしこの日は主イエスに向かって叫びました。「万歳!この方こそイスラエルの本当の王!」と主を迎えたのです。
 しかし、都中の者が「いったい、これはどういう人だ」と問うた時、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」(:11)と群衆は答えます。王と讃えた直後に、預言者と言う。つまり、自分が誰を迎えているのか本当にはわかっていないのです。同じ群衆は「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ盲人を黙らせようとし(20:29以下)、ここでは自分たちが「ダビデの子よ」と叫び、最後には「十字架につけろ」(27:23)と叫ぶ。吹く風の如く変わります。これは私どもの姿です。〈私を納め支配するただひとりの王〉として大切にするものは、自らの1日を王の言葉を聴いて始めるものです。困った時の救いだけは王に求め、それ以外の日々は王の言葉を蔑ろにするのです。
 しかし、何もわかっていない群衆の叫びを、主は止められませんでした。「主の名によって来られる方」(:9)としてエルサレムに入城する時が、来たからです。主はご自分の弟子にろばを用意させて都に入られた。子ろばです。軍馬ではありません。よろよろしていたかもしれません。しかも借り物のろばです。人から借りなければ都に入ることすらできない見窄らしい王の姿。群衆が考えていた王の姿とはまるで違うのです。
 この王の姿を言い表したのが、「柔和な方」(:5)です。「貧しい・苦しめられた・打ちひしがれた」という意味です。イザヤ書第53章、「彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。」(:4)「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。」(:7)の「苦しんでいる」、「課せられて」の2つの言葉と同じなのです。主イエスご自身も、「わたしは柔和で謙遜な者だから・・・」(マタ11:29)と言われました。仇する者から傷つけられることを甘んじて受ける。これがこの王の柔和です。
 これこそまことの強さです。「都中の者が・・・騒いだ」(同21:10)は「揺れ動いた」という意味です。つまり地震です。主がお生まれになりヘロデ王が不安に揺れ動いた時(同2:3)、息を引き取られた時(27:51)、復活の朝(28:2)にも同じ言葉が使われています。都を揺れ動かす力を持ったお方が、傷つけられること自ら選び取る。「 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:28)この言葉を、身をもって人に示されたのです。
 この王の苦しみは、神の支配をもたらすための苦しみです。主イエスのご生涯は「天の国は近づいた」(3:2)こと、つまり〈神が王として治めてくださる〉ことを告げるものです。しかしそれに立ちはだかるのが、神の民自身の中にある罪です。だからこの戦いは都で起こります。王が、傷つけられ殺される。それがこの王の戦い方です。「あなたの神が王となられた!」と告げる今朝併せ読んだイザヤ書第52章の終わりから、〈苦難の僕〉の歌(第53章)が始まる。神が王となられるその仕方が、僕の苦しみなのです。
 〈過越祭〉を祝おうとする都で、王が〈過越の子羊〉としてご自分を捧げようとしておられる。この王の苦しみによって新しい神の民が生まれようとしています。しかし、群衆も弟子たちも、このお方を王として見分けはしませんでした。見分けたのは子供達です。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」(21:16)とはそのことです。幼子(第19章)、盲人(第20章)、これらの人々について主はかつてこう祈られました。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(11:25)神の前での無力・無知、神に与えられなければ今日を生きることができないことを識っている乞食だけが、貧しい王をまことの王として見抜きます。自分と同じ姿にまで、この王が低くなってくださったからです。
 聖書は言います。「お前の王がお前のところにおいでになる」(21:5)あなたを治め、あなたのために傷つき、あなたの罪と死を担うために。あなたと同じ貧しい姿で。私どもはすでに神の前で立派に振る舞ってきました。「神の助けはいらない!」と。私どもに本当に必要なのは自らの貧しさを識ることです。そこに、子ろばに乗る王はひっそりと来られる。この王の前で、自分の誇りも正しさも捨てるのです。それが王を迎えることです。その者は識るようになります。自分が捨てたもの、一番醜いところを、このお方が踏んで十字架に向かわれる。私どものために。この柔和なお方に向かって、私どもは申し上げます。「あなたこそ、私の王です」と。

主は深く憐れんで
エゼキエル書39:21-29
 マタイ福音書20:29-34

 

 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(マタイ20:31)施しを乞うことでしか生きていくことのできなかった二人の物乞いは、ナザレのイエスに対してそう叫びました。「主なる神が約束された救い主・イスラエルのまことの王よ・・・」、そう二人は呼び、〈神の憐れみ〉を求めたのです。
 ところが、「群衆は叱りつけて黙らせようとした」(:31)のです。「大勢の群衆がイエスに従った。」(:29)とあります。主イエスと共に〈過越の礼拝〉に向かう旅の一行です。主イエスの一番側にいるものが、盲人を黙らせるのです。なぜか。自分には〈神の憐れみ〉が必要ではないからです。〈神の憐れみ〉以外に生きる支え・術を知っているからです。その者にとって、この叫びは時に耳障りなのです。だから、〈神の憐れみ〉を乞う声を遮るのです。この群衆は後に、「ダビデの子にホサナ」(21:9)と叫びます。盲人と同じように王の名を呼びます。しかし同じ群衆が、「十字架につけろ」と叫ぶのです。〈神の憐れみ〉を求める必要のないものは、王を捨てるのです。私どもの礼拝には、〈神の憐れみ〉を乞う心が伴っているでしょうか。
 主イエスは言われました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(:28)自分で自分を救えない人に対する神の憐れみです。そのために、神の御子が身代金として命を捧げてくださった。これほど大きな憐れみはありません。つまり、〈神の憐れみ〉とは十字架です。二人の盲人は十字架に向かわれる主イエスに、「憐れんでください」と乞うたのです。目が見えるようになることを願った盲人。二人は自分たちの願っていることの大きさを知らずに、しかし、まさに主が成し遂げようとしておられることを求めたのでした。
 しかし、〈神の憐れみ〉に縋ることは難しいことです。自分は持っていないことを認め、物乞いになることだからです。私どもは一所懸命にしてきた何かを持って神に訴えたいと思うのです。しかし聖書は、神の前では皆物乞いであると告げます。神の御子の命なしでは誰一人神の御前に立ち得ないのが人間だからです。物乞いであることは、恥ではなく、真実なのです。
 物乞いはどれほど黙らされても叫びます。「このお方を逃したら次はない!」と思うからです。主イエスはこの声を聞き、十字架へ向かう足を止められます。「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。」(:32)この主イエスの問いは、先週の箇所でゼベダイの兄弟の母に問われたのと同じです。(:21参照)王座の右と左を求める母と、目を開けてくださいと求める盲人。母は「自分が何を願っているか、分かっていない」(:22)のでした。主イエスの一番側にいるものこそ、「見えてない」者たちです。そして、「仕えるために来た」と言われた方が、僕となって、「何をして欲しいのか」と尋ねてくださっている。王が乞食に対して「御用はなんでしょうか」と尋ねてくださっている。このお方はそういうお方です。礼拝はこのことから始まるのです。
 「主よ、目を開けていただきたいのです。」この願いにはもう一つの響きがあります。主イエスはかつて言われました。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(6:22-23)また、「わたしの気前のよさをねたむのか。」(20:15)と。原文では「あなたの目が悪いのか」です。自分の知恵・力で曇る目、人と比べて妬む目は暗いのです。神の憐れみが見えません。だから求めないのです。従って「目を開けてください」とは私共の祈りです。「主よ、あなたのお姿を正しく見させてください。十字架に向かうあなたを見させてください。そして乞食である自分の姿を。」と祈るのです。そう祈る者が、見えるようになるのです。
 「 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると」(:34)。この「憐れんで」は盲人が求めた「憐れみ」以上の憐れみです。「はらわたが動く」という意味です。第18章で主君が家来に注いだ憐れみと同じです。(18:27参照)。同じ神の憐れみが、ここでは二人の盲人に注がれているのです。
 この憐れみは、ただ「叫んだ」者に注がれました。主の側から、一方的に注がれたのです。私どもの資格は関係ないのです。主は「その目に触れられ」ました。子供達を祝福された主の手(19:15参照)が、今、乞食の目の上に置かれます。
 「盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」(:34)盲人たちが最初に見たのは、自分たちを癒した、十字架に向かわれるお方の姿です。神の憐れみを受けて、主に従ったのです。見えるようになるとは、十字架に向かわれる主が見えるということです。
 私どもは、群衆と乞食のどちらにでもなり得ます。「自分は無でしかない」ことを認め「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と、叱る声よりも、大きく叫ぶことができるでしょうか。こう叫ぶ者に、主は立ち止まり、はらわたを動かして憐れんでくださるのです。
 預言者エゼキエルは言います。「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことはない」(エゼ39:29)神は顔を隠されません。私どもが目を閉ざすのです。目を開けられた者が最初に見るのは、神の憐みに満ちたお顔です。
私の杯を飲むことになる
エレミヤ書25:215-18
 マタイ福音書20:17-28

 
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」 (マタイ20:18-19)主イエスがご自分の死を予告されるのは三度目です。ここに初めて「十字架につける」という言葉が出てきます。私どもがしばしば、心地よい言葉だけを聞き大事な一言を聞き逃すように、「ゼベダイの息子たちの母」(:20)は「復活」だけを聞き取り、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」(:21)と願いました。
 この女性は厚かましい女性ではありません。彼女は「ひれ伏し」(:20)たのです。つまり礼拝の姿勢をとった。しかも、主の十字架を側で見守った女性の一人でした。(27:56参照)つまり、十字架の元で彼女は初めて自分の願ったことの意味を知ったのです。
 主イエスはこの女性を叱らず、「何が望みか」(:21)と、身勝手な願いを聞いてくださいました。その上で、「あなた方は・・・このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」(:22)と問われました。「あなた方」とあるように、息子(ヤコブとヨハネ)の願いでもあったのです。息子は答えます。「できます。」(同)第26章でペテロが自分だけは「つまづきません」(:35)と答えたのと同じ心です。覚悟はあるのです。覚悟と偉くなりたいという願望が一つになってしまっているのです。
 二人の兄弟に出し抜かれたことに、他の弟子たちは「腹を立て」(:24)ました。弟子たち全員に主イエスは言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(:25)つまり「あなた方の知らないことではない。皆人の上に立つことを望んでいる。」と仰った。私どもの家庭、教会の中にもこの願いは生きています。その私どもに、主イエスは「杯」という言葉を語られます。この「杯」は、主イエスがゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(26:39)と祈られた「杯」です。この主イエスの側で、「二人の兄弟」は眠り込んでいました。
 併せ読んだエレミヤ書には「わたしの手から、この怒りの杯を受けて、わたしがあなたをつかわす国々の民に飲ませなさい。」(25:15)とあります。神の怒りの杯です。エレミヤ自身が神の怒りに満たされる苦しみを知った人でした。しかし主イエスは神の子です。神の怒りを免れる側のお方です。しかしその主が、神の怒りを受ける側にお立ちになった。従って「この杯を飲むことができるか」とは、「神の怒りに触れることができると言うのか」という問いです。二人の兄弟はそのことを知らずに、「できます」と答えたのです。
 主イエスはお答えになります。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」(20:23)「どこに座るか、座は父のものである。杯は、私のものである。そして杯は、あなた方にも渡される。」そう言っておられる。そして「飲むことになる」とは約束です。事実ヤコブはヘロデ王に剣で殺されます。(使徒言行録12:2参照)しかしその前に、ヤコブもヨハネも主イエスが捕えられる時逃げたのです。「できます」という言葉は虚しいものでした。しかし主イエスがご自分の杯を飲み干し、お甦りになり、聖霊を注がれたから、主イエスの後に続くものになったのです。「飲むことになる」とは造り変えの約束です。
 母の願ったあの座は、実は十字架でした。「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。」(27:38)とある通りです。十字架を遠くから見ていた母は、そこではじめて知ったのです。自分が何を願っていたのかを。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(:26-28)「人の子」は旧約聖書の言葉で万民が仕えるべきお方を指します。そのお方が、ご自分の命を差し出され、世の順序・価値観はひっくり返ったのです。そして「身代金」とは〈奴隷買い戻しの代価〉です。いつも支配する側に立つ私ども(=請求書を突きつける私ども)を、払って頂いた側に移されたのです。私どもが飲むべきだった神の怒りの杯を、主が飲み干してくださったのです。その主が、「同じように」(:28)と言われます。「そんなことはできない・・・」と思ってしまいます。しかしこれは命令ではなく、「なる」という約束なのです。私どもは確かに神にお仕えします。しかしそれよりも先に、神がずっと仕えてくださっていたことに気が付かされる。それが礼拝の場です。その時、主イエスと同じように仕えることに「なる」のです。そしてその者は請求書を捨てます。持つ必要がないからです。
 この後私どもは「杯」を手にします。それは主イエスが私どもに支え抜いてくださったことのしるしです。この杯を、主イエスはご自分が捕えられた夜、弟子たちに手渡されました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(26:27-28)同じ夜に主を捨てて逃げる者たちの手に渡されたのです。杯は、賜物として渡されるのです。 
 王座の右と左を求めた母。「できます」と答えた二人の息子。しかし詩篇は別の答えを知っています。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。救いの杯を上げて主の御名を呼び・・・」(116:12-13)神の憤りの杯は主が飲み干してくださいました。私たちに与え直されたのは、「救いの杯」です。私どもにできる答えは、その杯を上げて主の御名を呼ぶことです。そこから仕える者の歩みが始まります。

『「古い人」は死んだのだから』
 エゼキエル書36:22-28
 コロサイ書3:1-11

 
 「古き良き時代」などと言うように、古いものに価値を見出すことはよくあることです。しかし、信仰に生きる人間の姿に関しては、同じようには言えません。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て・・・造り主の姿に倣う新しい人を身に着け・・・」(:3)と教会の最初の伝道者の一人パウロは言うからです。「古い人は捨てよ!新しい人を身につけよ!」そう言っているのです。
 パウロが「捨てよ!」という「古い人」の姿は第5節に記されています。「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」誰一人無関係とは言えない悪徳です。中でも「欲望」という言葉の元々の意味は「切望・切なる願い」です。そのものは悪いものでありませんが、これが「悪い」欲望に変わる瞬間が常にあります。
 「あなたにはこうであってほしい」という人に対する「切なる願い」。相手がその願いに答えてくれない時、私どもは怒りを覚えます。自分の願望をなんとしてでも実現させたいという「悪い欲望」です。また、神様に対しても同じ「悪い欲望」を振りかざします。ご自分のご受難を予告なさった主イエスを諌めたペテロ(マタイ16:21以下参照)。ペテロの主イエスへの愛ゆえの言葉です。しかし、「私の考える救い主はこうであっては困る!」という「悪い欲望」に他なりません。だから主イエスはペテロのことを「サタン」とまで言われました。これが「古い人」の姿です。「自分がこの『古い人』を内に秘めていることを、偽らず正直に認めなさい。」ということを言っているのが、「互いにうそをついてはなりません。」(:9)という部分です。
 本当にその通りだと認めるとき、途方に暮れるほかはない私どもです。「古い人」を自分の力で捨て去ることができないと思うからです。さらに途方に暮れさせるのは、「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。」(:6)という言葉です。神の激しい怒りが、「古い人」の故に降ると言われているのです。
 「古い人」をどうしたら良いのか、切実に問い始める時、一つの疑問にぶつかります。「あなたがたは死んだのであって・・・」(:3)という言葉です。「古いあなた方は死んだ!」と言われているのに、なぜそれをまた「捨てろ!」と言われているのか。古い訳の聖書では、「捨て去れ」は「殺せ」です。死んだものは殺すことができません。
 実は、「捨て去れ」という言葉は、「死んだものとみなせ」という意味なのです。ある牧師はこの言葉を説明して、「洗礼を受けた時にキリストと共に死んだのだ。そのことを忘れず思い違いをするな。」と言いました。さらに、「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(:1)とある。「上にあるもの」は、キリストです。「神の右の座」は神の全能の力です。このことを述べながら、「あなたがたは死んだのであって」とパウロは言います。つまり、キリストは神の全能の力で、あなた方が洗礼を受けた時、死んだものとしてくださったのだ、ということです。だからこそ、私どもも、古い自分を死んだものとみなすことができるのです。「神の怒り」(:6)が降るはずの「古い私」は、キリストと共に十字架で死んでもういないということです。キリストが神の怒りを全て引き受けてくださったのです。
 洗礼に限ったことではなく、「キリストと共に」(:1、4)にある時、キリストは「古い人」を死なせて、「キリストと共に復活させられた」(:1)者として、新しく生かしてくださる。その新しい命は、「あなた方の命であるキリスト」(:4)と言われているように、キリストそのものです。パウロの「わたしにとって、生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)という言葉とも重なります。あるビジネスマンは、人と会う前に必ず祈ったそうです。人と会うときにこそ「古い自分」が顔を出すからです。ですからその都度、キリストの御業に自らを委ねた。
 私どもはこのキリストの御業をよく忘れます。だからこそ、パウロは念押しをします。「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て・・・」(:8、9)今度は「古い人」は「古い衣」です。キリストが既に新しい衣を着て生きることができるようにしてくださったのだから、「古い衣」は脱ぎ捨てて良いのです。「古い衣」は似つかわしくないのです。
 新しくさせられたものは、「日々新たにされて、真の知識に達するのです」(:10)「真の知識」とは古い人を死なせ、新しく生かすキリストの御業に関する知識です。「上にあるもの」を求める人には、キリストの御業が日毎によくわかるようになるということです。 
 パウロ自身が、新しくさせられた人でした。古いパウロは怒りと殺意に満ちた教会の迫害者でした。(使徒言行録8、9章参照)お甦りのキリストがパウロを打ち倒したのです。その時から、古い自分に死んでいく歩みが始まったのです。
 「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。」(:11)「区別はありません」とは場所がないという意味です。つまり、パウロは、自分の中に「古い人」の場所がないことに気がつき驚いた。さらに自分にとって「キリストがすべて」(:11)になっていることにも驚いたに違いないのです。自分がエリートだからとか、経験が浅いからなどということは、全く関係ないのです。キリストは今もなお、すべてのものの内に居られてこの御業を続けておられます。
 あるキリスト者は次のような趣旨のことを書きました。「毎朝あらゆる願望や希望が、朝、押し寄せてくる。それをまず押し戻すのだ。静かな、しかし大きく、強い、キリストの御声を聞くのだ。」この週も何度でも私どもの「古い人」は顔を出すでしょう。その度に、キリストの御業に自分自身を委ねるのです。キリストの御声を聞くのです。「私が古いあなたを死なせ、新しい私の命に生かす。」キリストは、今もなお、「すべてのもののうちにおられる」(:11)、そして、「神の右の座に着いておられます。」(:1)

 
 

〈日々想うこと〉

数日前、山間の道路を走っていたら飛び出してきました。
なんのお尻でしょう・・・???

ひまわりが咲きました。それぞれ異なった土壌に植えたそうです。同じ時に植えた種なのに育ちがこんなに違います。土壌が、とても重要です。
 
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。・・・良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイ福音書第13章より

プランター植え。

 

花壇に植えたものは、天高く、スクスク育ちました。

近所にブドウ畑があります。こんなにたくさんの実がなっていました。これだけの実は何本の幹から実るのかと思い、数えました。幹は、たった一本でした。主イエスのお言葉を思い起こしました。
 
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」- ヨハネ福音書15:5 -

幹はたった一本。

  

実は教会にもぶどうがあります

   

教会のぶどう


 

 私が敬愛する牧師に、高倉徳太郎という人がいます。最近、主日礼拝の説教を聞いていて、高倉牧師の説教を思い起こすことがよくあります。今日はその中の1節をご紹介します。 「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ書4:9)という御言葉の説教ですが、次のような趣旨です。「私どもはくまなく赤裸々に神に知られている。これは実に厳粛なこととして畏れるべきです。同時に感謝し尽くせないことです。・・・神に知られていることを真実に知った時ほど、私どもの心が低くさせられることはないのです。私どもは神の前に、何を自分の業として誇ることができますか。私どもにはただ、汚れと無力があるのみです。神を離れて何事もなすことができないとは、神に知られていることを知っている者の偽りのない告白です。・・・今私の心を新たに動かすものは、神の恵み、すなわち、キリストの知遇(取るに足りない自分を知っていてくださること)です。・・・私にもし誇るところありとすれば、それは主イエスが自分を知っていてくださるということだけです。ここにも、自分が「迷い出た一匹の羊」であること、その自分を命懸けで見つけ出してくださる羊飼いのことを深く知っている信仰者の告白の言葉があると、改めて感じ、自分を顧みさせられています。

 
 〈お車でおこしの場合〉

 

アクセス

〈 公共交通機関をご利用の場合〉
 
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